2011年9月20日

  これまでチンプンカンプンだったフッサールの現象学ですが、NHKブックス・竹田青嗣著「現象学入門」によってぼんやりした姿かたちが浮かび上がってきました。
  その姿かたちを報告する能力は私にはまったくありません。
  ただ、フッサールの現象学がもっている問題意識が、般若心経にあまりにもピシャリとあてはまるのにビックリしており、そのことを報告しておきたいと思います。

  まず、竹田青嗣の文章を引用します。(以下、上記のNHKブックスからの引用。数字はその本でのページ)

  「フッサールは『危機』(『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』)でこう語っていた。これまでの学問は『人間にとっての焦眉の問題を原理的に排除して』きた。その問題とは『人間の生存自体に意味があるのか、それともないのか』という問いである、と。」(P207)

  般若心経は、この問いに対して「色即是空 空即是色」と答えていたのでした。
  フッサールの現象学においては、次のように答えられているようです。

  「近代科学が世界の客観性、普遍性という理念を作り上げて以来、人間の生活世界の中での意識のありようもこの理念的世界観から無縁でなくなってしまった。……学は個人の生の意味というものに触れられなくなり、また逆に個人は、自分の生の意味を、近代的な意味での客観性とか普遍性とかいったものから計る以外に確かめる術を持てなくなった。」(P150)
  そして、
  「世界とは、けっしてあらかじめそれ自身の存在や意味を持つものではないことがわかる。」(P150)
  「現象学の課題は、まず学の普遍性というものを、世界の存在、その客観性(存在関係の)の解明に向けようとしていた近代理性の虚妄を明らかにする点にある。世界の客観存在、因果の客観性、そういったものはもともとそれ自体としては存在しないからである。」(P151)
 
  この結論に至る過程は省略するとして、世界がそれ自身の存在や意味を持たないという結論は、まさに「色即是空」の意味するところと完全に一致していると思われます。

  そして、般若心経解釈において「色即是空」のあとに「空即是色」と置かれていることがしばしばなおざりにされているのですが、現象学における次のような文章は、般若心経を作った者が「色即是空」に「空即是色」を続けたことと同じ問題意識を現象学が有していたことを現わしていると考えられます。

  すなわち、
  「世界の様々な相は、ただ個人の生の意識(=主観)にとってだけの存在と意味を持つものにすぎない。」(P150)
  「それゆえ、つぎに、対象を普遍化しようとする学の努力は、むしろ人間の実践的な生の意味、そこから導き出される世界の存在の意味に向けられるべきである。なぜなら、意味というものは、それ自体実在するものではないが、どんな人間の生にとっても生そのものを構成する本質であり、しかもひとつのはっきりした普遍的構造をもつからである……。」(P151)

  般若心経に当てはめてこれを解釈すると、「意味というものは、それ自体実在するものではない」、すなわち「色即是空」だが、「個人個人の生の意識(=主観)にとっての意味」というものは生じるのであり、「意味というものは、どんな人間の生にとっても生そのものを構成する本質である」、すなわち「色即是空」ではあるが個人の生の意識にとっても、どんな人間の生にとっても、やはり「色」であるということになります。
  これこそ、「空即是色」であり、それが「色即是空」の後に続く意味でしょう。

  そして、「色」はそのまま存在するものとの考え方から「色」の意味を考えようとする、そういう虚妄から脱却して、「空」ではあるが「色」であるという条件付きの「色」の持つ意味に、学問の努力が傾けられるべきであると、現象学は主張しているようなのです。 
  人間に先行して世界にあらじめ究極的な意味や目的が設定されているのではない、意味や目的は人間から出発して設定されるものなのだ、という真のヒューマニズムの出発がここにあるのではないでしょうか。