2001年8月28日
前々回、前回の通信における仏教についての恥かきついでに、仏教に
おける「時間」について報告します。
仏教において、末法思想だとか、50億年後に弥勒菩薩が人類救済のた
めに登場するだとかいう説がありますが、仏教のエッセンスにおいては、「
時間」は無目的の反復であり、歴史も人生もこの反復のひとこまにすぎない
とされていると思います。
この世の何事であれ、そのすべてが「無意味」「無価値」「空虚」であるとい
う考え方からすれば、外見上の変化がいかなるものであれ、「時間」が無目
的の反復であるというのは論理的必然といえるでしょう。
この仏教のエッセンスにおけるのっぺらぼうな「時間」という考え方に対立
する考え方として次のようなものがあります。
ひとつは、「時間に始めあり」あるいは「時間に終わりあり」として、キリスト
教の宇宙創造説のような、はじめの何らかの意図のもとに現在があるとして
現在を意味付けたり、究極的な理想の王国、あるいはその反対に最終的な
大破滅という「終わり」までの一時点として現在を意味付ける考え方です。
もうひとつは、「始め」、「終わり」は別として、文明文化の発展だとか、歴史
の進歩だとか、「時間」に意味的、価値的なベクトルありとする考え方です。
ところで、「色即是空」は、近代科学の知見と矛盾しない考え方ともいえ、あ
るいは近代科学を先取りした考え方ともいえると思われますが、仏教のエッセ
ンスののっぺらぼうな時間という考え方は、宇宙に始めがあること、「時間」に
始めがあることを明らかにした最先端近代科学の成果である「ビッグ・バン理
論」によって破られてしまったと考えられます。
われわれ用の大衆普及版が出されていないせいかもしれませんが、仏教
者がそこのところをどのようにこなしているのか、それが?印です。