2001年8月24日

 589(四苦八苦)について、私として緊張感をもって答えなければならな

い次のような質問をいただきました。

 その質問というのは、「人生が苦に満ちている」とする仏教は、「なぜ人
を殺してはいけないのか」「なぜ自殺してはいけないのか」という子供たち
にどう答えているのか、という質問です。

 「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問に答えた人として私が知っ
ているのは、文芸春秋の昨年11月号の特集での回答者と柳美里、橋本
治ですが、その答の内容は既に忘れてしまいました。なるほどいうような
ものはなかったのだと思います。(既通信27参照)
 質問には、宗教的見地から声明を出した宗教はあったのかという問い
も含まれていましたが、私の目に触れた限りでは、そのようなものはなか
ったと思いますし、文芸春秋昨年11月号では尼僧である瀬戸内寂聴、宗
教学者の山折哲雄が宗教関係者でしたが、回答はあくまでも個人として
の回答でした。

 短文での回答は困難と思いますが、以下、質問に対する私の見解を報
告します。

 まず、仏教で「四苦八苦」といい、「人生は苦に満ちている」といいますが、
私の知る限りでは、仏教のエッセンスでは、議論はそこから立ち上がるの
ではないと思います。

 仏教のエッセンスでは、この世あるいは人生というものは、「無意味」「無
価値」「空虚」である……各宗派共通の経典である「般若心経」によれば「色
即是空」……が「客観的真実」であるとし、この「客観的真実」から議論が出
発しているのだと思います。

 「人生が苦に満ちている」というのは、この「客観的真実」の認識に至るきっ
かけ、入り口と位置づけられているのだと思います。
 すなわち、「人生が苦に満ちている」という認識を持つと、それではそもそも
人生とは何なのだという疑問に進み、その結果、人生もこの世も「無意味」「
無価値」「空虚」という「客観的真実」の認識に至るというストーリーです。

 そして、「苦」というのは主観的なものにすぎず、「無意味」「無価値」「空虚」
が「客観的真実」であるとすれば、「苦」もまた「無意味」「無価値」「空虚」でし
かないはずということになり、きっかけ、入り口であった「人生が苦に満ちて
いる」という認識は吹っ飛んでしまうことになるのだと思います。

 それでは、「無意味」「無価値」「空虚」が「客観的真実」であるという認識か
ら、「なぜ人を殺してはいけないのか」「なぜ自殺してはいけないのか」という
質問に仏教はどういう答をするのでしょうか。

 このことについての私の推定は次回に試みたいと思います。