2001年9月26日

アメリカの連続多発テロは「罪なき一般市民を対象にした無差別テ
ロ」であり、許しがたき犯罪であるということについて、世界の世論の
ほとんどの一致があると言っていいでしょう。

巨大ビルに押しつぶされ、ジェット燃料に焼かれ、肉片、骨片と化し
た数千人の犠牲者、そしてその数倍、数十倍に及ぶ犠牲者の家族た
ち、また命は助かったものの一生の傷を負って生きていかなければな
らない負傷者たち、彼らの一つ一つの失われた人生の総体を思えば、
まさに筆舌に尽くしがたい、気の遠くなるような感覚に襲われます。
ひとりひとりの彼らを何らかの理由を付けて責める余地はまったくあ
りません。

しかし、敢えて次のような問いを発しなければなりません。

「 マスとしての一般市民をまったくのinnocentとすることができるので
あろうか?」

石油化学文明の恩恵をほぼ独占的に享受してきた西欧文明下の一
般市民(ここには当然日本人も含まれます。)の生活のため、ある時は
直接的な侵略というかたちで、ある時は域内国家間、民族間の対立を
促進し、その対立を武器輸出であおるというようなかたちで、現代文明
の基礎である石油の産出地にあたってしまったアラブ諸国の大衆の運
命を、西欧文明がもてあそんできたという事実を否定することはできま
せん。
そこにおける悲劇について十分な情報提供がなされていないために
忘れられがちであることはまったく遺憾なことであり、単純に数だけで
言えば、今回の連続テロに比すべくもない膨大な悲劇があるといわな
ければなりません。
これを権力者の行為であったとして、自分たちはinnocentとすることが、
市民のよる支配をその政治制度の原理とする民主主義国家の市民に
許されるでしょうか。

今回の連続多発テロが、自分たちはinnocentという意識のもとでの被
害側の報復というかたちのみで決着するとすれば、……事態はそのよ
うな方向に動きつつあるように見えますが……それは表面的解決をもた
らせたとしても、双方にとっての悲劇の再生産コースでしかありません。

無知をinnocentとして許されるのは子供たちだけです。