2001年10月15日
10月7日の日曜日、佐賀の街を歩いてきました。
佐賀は、明治維新で活躍した「薩長土肥」の「肥」にあたる官軍の中核
でしたが、「士族の反乱」として日本史で学ぶ「西南戦争」をはじめとする
明治初期の反乱のうちの一つ、「佐賀の乱」で多くの人材を失っています。
その「佐賀の乱」の記念物が二つありました。
一つは、「佐賀の乱」を鎮圧するために熊本鎮台から派遣された明治
政府軍の戦死者の墓で、佐賀城南の乾亨院というところにあり、大きな
大理石3基の立派な墓です。
もう一つは城内万部島というところにある反乱軍側の戦死者の記念碑
で、大正になって建てられたものですが、高さ6~7メートルはあるでしょ
うか、これも立派な記念碑です。
驚いたのは、反乱軍側の戦死者……そこには維新の志士、後藤新平
も含まれているのですが……の記念碑に刻まれている文字で、「明治七
年戦死諸君之碑」としか書かれていないのです。
しかも、市内各所の「見て歩き」スポットには丁寧な案内板が置かれて
いるのに、そこには何の表示も置かれていないのです。
さらに、駅観光案内所で入手した地図付きパンフレットには、明治政府
軍側戦死者の墓については45文字余の説明があるのに、反乱軍側戦
死者の碑については、隣接地にある鍋島家代々の石碑の説明が丁寧
になされた後に、「同地には佐賀の役記念碑がある」と書かれているだけ
なのです。
そして、そこに「佐賀の役」と書かれていますが、「役」というのは対外戦
争を表わす言葉で、内戦である場合は「乱」とすべきであり、明らかな間
違いがあります。「佐賀の役」という言葉は他のパンフレットにも書かれて
いました。
明治維新で活躍した郷土の英雄達を誇りとする心情、しかし反乱を起こ
して明治政府に楯突いた者達であることによる中央政府への遠慮、また
「乱」としたのではいかにも郷土の英雄達を犯罪者扱いすることになるとい
うやりきれなさ、このような複雑な感情が、以上のようなちぐはぐを起こした
原因ではないかと思われます。
そして、このような複雑な感情が、日本の近代史の潜在的怨念となり、国
粋主義的傾向として全国各地に現在もなお流れ続けているのです。