2001年10月17日
おとしめられ、いやしめられ、はずかしめられ、どん底の生活を余儀
なくされた人々あるいは民族が生き延びていること、生き延びていかれ
ること、その背景には必ず、現在こそそのような状態におかれているが、
将来は、あるいは来世では、あるいは子孫達は、そのような状態から離
脱できるという「希望」があるはずです。「希望」には至らなくても、まなざ
しが自分に注がれているという「慰藉」があるはずです。
そして、おとしめられ、いやしめられ、はずかしめられ、どん底の……
というところまでいかなくても、すべての人間にとって生き延びていること
には何らかの否定的要素(仏教で言えば「苦」)が、必ずつきまとっている
のであり、「希望」か「慰藉」かが、必ず生き延びるにあたっての精神的支
えとなっているはずです。
それが一定のまとまりとなり、組織化され、体系化されているのが宗教
です。
その「希望」あるいは「慰藉」が、まったくのナンセンスとされたら……そ
れは通常他の宗教によってなされるのですが……それを支えとして生き
延びている人々あるいは民族はどうなるでしょうか。
生き延びることを否定されたこと、すなわち死の宣告を受けたことを意
味するでしょう。
宗教の違いが殺し合いの原因になることについて理解できないという人
がたくさんいます。
もちろん、宗教の違いによる殺し合いの背景に経済的要因、生活習慣の
違いという要因などが絡むものではあります。しかし、原因をすべて宗教以
外の原因に帰してしまうこともまた現実的ではなく、信仰する者にとっての
宗教の持つぎりぎりの意味を軽視することになるでしょう。
日本人の多くがこのようなぎりぎりの意味での宗教を持たないということは、
おそらく世界全体からすれば例外的なはずです。
諸宗教の宥和ということは、この例外的な存在である日本人が考えるほど
簡単なことではないと思われます。