2011年8月9日
突然の大規模停電とそれによる大混乱を回避することのみが目的なのであれば、夏場の午後2時ごろと言われているピーク時の最大電力使用量を抑制すればいいはずです。
> 世の中の節電ムード作りが、このピーク時最大使用量を抑制するための雰囲気作り、基盤作りとして行われているのであれば、それはそれとして理解できないわけでもありませんが、明確な目的意識もなく、闇雲に四六時中、節電節電と叫ばれるのには、いささか抵抗を覚えます。
> 駅のエスカレーターの運転中止など、節電過剰反応により、弱者保護の観点を大いに欠いていることになっているのではないでしょうか?
>
> さて、今回は電力の問題がテーマなのではありません。
> 「最大多数の最大幸福」などと民主政治の目標とされ、個人個人の目標ともされる「幸福」というものの問題です。
> その「幸福」とは、ピーク時が問題なのか、生きている期間における平均値が問題なのか、臨終を迎える時が問題なのか、特定の時期を設定できるのか、何時のことなのでしょうか。
>
> 「自分は幸福だった」という過去の記憶による幸福感は、それを感じている現在の幸福感であり、また「自分は幸福になれそうだ」という未来の期待による幸福感も、これまたそれを感じている現在の幸福感であり、、「幸福」とは、現在のものでしかないことがわかります。
> かつまた、過去はすでに過ぎ去っているのであり、すでに事実は確定しているので、過去の記憶による幸福感は、その確定した事実を如何に意義付け、価値付け、評価するか、当人に完全にゆだねられたことです。
> 未来の期待による幸福感も、当人が期待する事柄、当人が期待する水準次第であり、これもまた、当人に完全にゆだねられていることです。
> 要するに「幸福」とは、過去の事実、未来の予測よりも、現在における当人の主観に大きく依存しているものなのです。
>
> しかしながら、現実には、過去の取り返しようのない事実に縛られ、未来の展望のなさに打ちひしがれ、世の中、特に最近は、「幸福感」に乏しく、「不幸の感覚」に満ち満ちています。
> それはいったいなぜなのでしょう?
>
> 答えは簡単なこと、「幸福」が当人の主観に大きく依存しているにもかかわらず、その当人が自分の「幸福」の判断に他者の眼を持ち込んできて、自分の主観を殺してしまっているからです。
> 言い換えれば、他者との相対関係において、他者との比較級において、当人が自分の「幸福」を判断しているのです。
> そして、ここにおける「他者の眼」「他者」とは当人が仮想している「他者の眼」「他者」であり、仮想であるがゆえに時間的遅れが必然的に生じています。
> 社会全体が右肩下がりの時、この時間的遅れは必ず「幸福」より「不幸」の感覚を導くでしょう。
>
> そんな曖昧なことに人生を賭けていいのか、そういう問題意識から古今東西の智者は、他者の眼に負けない、ゆるぎなき自分の主観を打ち立てること、その重要性を説き続けてきたはずですが。