2011年8月1日

 合理的選択を「賢い」とし、非合理的選択を「バカ」とすれば、当然、合理的選択が望ましいということになるでしょう。
 経済発展が人々の合理的選択に依存しているとの説明がなされ、個々の人間に合理的人間であることが期待されれば、教育はそのような方向で行われることになり、人間はそのような物差しで評価されることになるでしょう。
 それが現在の我々の社会です。
 そこには誤りはなく、まさに合理的であり、反論の余地はないように思えます。

 しかし、合理的選択をするということのほかに、選択が合理的であることを他者に説明する必要があるということがあり、それはまったく別次元の事柄であり、その間には大きな違いがあります。
 
 現在、我々は極めて多くのモノとサービスに囲まれ、我々には消費選択の自由が与えられています。
 職業の選択の自由、移動の自由、両性の合意による結婚の自由、出産の自由、子どもにいかなる教育を施すかの自由等々人生の選択においても大きな自由があります。
 その自由を我々は単純に謳歌すればいいはずです。
 
 しかし、、実は我々は自由を単純には謳歌できていないのです。
 社会全体からの合理性の要請、「賢さ」を目標に学んできた自分自身への納得のため、選択の合理性の説明という課題があるからです。
 すなわち、自由の行使、選択権の行使にあたり、その選択が合理的であったことについて、自分が「賢かった」ことについて、ある時は意識的に、ある時には無意識に、ある時は他者を意識し、ある時は自分自身に対して、我々は説明をしなければならず、説明ができなければならないのです。
 もちろん、そのような義務が明示的にあるわけではありません。
 しかし、社会全体からの合理性の要請、「賢さ」礼賛の社会的雰囲気の中で、単に合理的であらねばならないのにとどまらず、合理的であることの説明の必要性が我々の強迫観念になっているのです。
 
 そして、そのような需要のあるところには市場原理によって必ず供給が伴ってきています。
 コマーシャル、その道の専門家、評論家の説明、著名人の選択例の披露等、膨大な情報がそのような役割を担って供給されています。
 そして、実質において大した違いのない選択肢のわずかの違いを際立たせるために、あるいはまったく実態のない違いを違いと偽装するために、莫大な資源がその世界に投入されています。
 そんな情報洪水の中で我々は生活しているのです。
 電車の中での会話、居酒屋、喫茶店での会話、家庭での会話等々、注意して聞いてみると選択の合理性、「賢さ」についての会話、供給された情報の交換に世の中は満ち満ちていることに気がつくはずです。
 合理性の説明という強迫観念に対応するために我々はいかに膨大な時間を費やしていることでしょう
 そして、自分の選択が合理的ではなかったのではないか、「賢くなかった」のではないか、という極度の不安は社会全体を覆い、社会的精神病理の大きな背景となっています。

 翻って考えてみて、そのような社会全体のあり方を合理的というのは、無理があるのではないでしょうか。
 翻って考えてみて、選択の実質よりも選択の説明に費やされる人生とは、寂しいのではないでしょうか。