2001年12月7日
中里恒子「時雨の記」につながるロマンティックを期待して吉住
侑子「真葛が原」(作品社)を読みました。これは5つの短編からな
る小説集ですが、ロマンティックの期待は完全にはずれていました。
独身を貫き、あるいは別居・離婚により、故郷に帰って、これか
ら迎える老後をひとり家で暮らしていこうとする女性の物語であり、
全編主人公の女性は「荒涼たる世間」に囲まれ、その世間からの
疎外感に包まれています。
彼女たちの心を慰めるのは庭に植えた樹木であり、彼女たちが
共感を持つのは、世間の悪意にさらされ、彼女たちと同じように世
間から疎外されている精神障害者、流れ者、老狂女なのです。
そして、彼女たちをそのような境遇に導いたのは異性のはずで
あり、これから彼女たちの前に現われる異性も同じような異性でし
かないはずなのに、彼女たちの生の意欲、生の期待は、異性との
出会いにあります。
また、この小説では、これから迎える老後が問題であるはずな
のに、死の問題はまったく登場しません。
ここには、身近な自然への関心、愛着、男女の情愛の世界への
執着、死についての楽観等絶対者、超越者不在の日本の伝統的
精神生活パターン(加藤周一「日本文学史序説」)の典型的再現が
見られるのです。
絶対者、超越者への信仰をもたない彼女たちが異性との不幸
のスパイラルから脱し、心豊かな老後を迎えるためには、日本の
男は、彼女たちの前に幻想の存在としてあるべきであり、生身の
男として登場してはならないというのが、作者は意図していないで
あろうこの小説からの教訓です。
( 中里恒子「時雨の記」に登場する男は現実には存在しえない男
であり、中里恒子は幻想の男を描いたわけで、その意味で「時雨
の記」と「真葛が原」は通底することになります。)