2001年12月20日
前回「イエスの方舟」について、それを現代家族批判としてとら
える考え方を紹介しました。
家族というグループの構成員の間の人間関係は、共同体的なも
のであり、すなわち無償の関係です。構成員であること、そのことの
みによって、逆に言えば、他の構成員の役に立つとか立たないとか
いう利害を超えて、全面的にその構成員がグループに受け容れら
れるという「あたたかな」人間関係です。(少なくともそういう理念に立
った人間関係です。)
一方、現代企業社会は、目的達成のための貢献度によってその
構成員を評価し、貢献の少ない構成員は切り捨てていくという「冷た
い」人間関係を基本としている社会です。
このような家族と一般社会の関係が、家族を砂漠の中のオアシス
として強く希求させる状況をつくりだしています。
しかし、、家族の共同体的な性格は、内部に対しての「やさしさ」を
もたらす反面、外部に対する「きびしさ」を必然的に伴うことになりま
す。家族大事ということは家族エゴにつながらざるをえないのです。
そのことを安岡章太郎は次のように書いています。
「……やたらに家庭家庭とそれを大事がることは、やはりエゴイズム
を無用に膨張させ増幅させる結果となるのではないか。
家庭の幸福を願うのも、ほどほどにして置くのが良さそうだ。」
同時多発テロ以来、ニューヨークでは結婚が急増しているという報
道がありました。「あたたかな」人間関係に逃げ込みたいという欲求が、
自爆テロ、炭疽菌の社会の中で強まっているというのです。
かつて70年代全共闘運動に「連帯を求めて孤立をおそれず」という
美しいスローガンがありましたが、家族への逃避が「孤立を求めて連帯
を失う」という内向的社会につながるとすれば、これもまた不幸といわざ
るをえないでしょう。