2001年12月21日
朝日夕刊に加藤周一が彼のコラム「夕陽妄語」で「神はどこにいる
のか」という小論を書いています。
そこで加藤は「科学的知識対宗教的信念(または希望)」という問
題を取り上げています。
そして、レバノンの作家の小説に登場する地動説を主張する少
年と天国を信じる老人との対立について次のように書いています。
「 二人の議論のくいちがいは、実は知識と無知とのちがいではな
く、別の次元の関心……外部世界の構造の認識と人間内部の心
理的必要に由来するものであった。」
そして、この小論を次のように結んでいます。
「 世界を知るためには科学、世界を変えるためには信仰なのかも
しれない………。」
私は、加藤のこのような科学と宗教の二元論には賛成できません。
科学と宗教の対立を宿命的とする考え方には同意できません。
すでに河合隼雄が「宗教と科学の接点」(岩波書店)において、何故
人類の思想が西欧近代科学と東洋思想とに別れたのかについて明
らかにしています。そして、別れたということは、元に戻れば一つとい
うことになるはずです。
科学は、自然科学、人文科学、社会科学の別を問わず、様々な現
象の中から「法則」を見出そうとする試みです。
「混沌」を明らかにしようという科学は成立しません。現実を放置して
おくことこそが「混沌」だからです。
「法則」は「秩序」という言葉でも置き換えられます。
「秩序」こそ人類は切実に希求するのであり、科学も宗教も同様に、「
秩序」を求める人類の知的営みなのです。
仏教の言葉である「厭離穢土欣求浄土」を借りれば、人類は「厭離
混沌欣求秩序」なのです。