2011年7月9日

 小説「ペスト」において、カミュは、人間にもたらされる理不尽な事態、あるいはそもそも人間が置かれている状態としての理不尽を、アルジェリアの1都市オランで発生したと仮想される「ペスト」に象徴させています。
 そして、理不尽に対して人間が採るスタンスが、どのような考え、どのような心理によって導かれるのか、について3つの例を上げています。

 小説に登場する何人かの人物は、ペストの猛威に対する人間活動の効果について確信は持てぬまま、ペストに感染する危険を十分に承知しつつ、ペスト患者を放置できず、患者を直接に取り扱う決死の保健隊活動に従事します。
 そして、そのような活動に従事する理由を次のように語るのです。

 「まあ、いってみてくれませんか。いったい何があなたをそうさせるんです。こんなことにまで頭を突っ込むなんて。」
 「知りませんね。僕の道徳ですかね、あるいは。」
 「どんな道徳です、つまり?」
 「理解することです。」
 (筆者注:何を理解するのでしょうか?おそらく、ペストという理不尽な事態が人間にとって何であるのか、どういう意味を持つのか、それを理解しようとするのでしょう。)

 これが第1のケースです。
 第2のケースは、

 「今度のことは、ヒロイズムなどという問題じゃないんです。これは誠実さの問題なんです。こんな考え方はあるいは笑われるかもしれませんが、しかしペストと戦う唯一の方法は誠実さということです。」
 「どういうことです。誠実さっていうのは?」
 「一般にはどういうことか知りませんがね。しかし、僕の場合には、つまり自分の職務を果たすことだと心得ています。」
 (筆者注:彼は医師です。職務がペストと結びつかない場合、誠実さはいかに発揮されうるのでしょうか?職務とは狭い意味の職業ではないのかもしれません。)

 第3のケースは、

 「まあ、そういうわけで、僕は、災害を抑制するように、あらゆる場合に犠牲者の側に立つことを決めたのだ。彼らの中にいれば、僕は探し求めることはできるわけだ。……どうすれば第3の範疇に、つまり心の平和に到達できるかということをね。」
 ……心の平和に到達するためにとるべき道について……何かはっきりとした考えがあるか、と尋ねた。
 「あるね。共感ということだ。」
 (筆者注:この場合の「共感」とは「憐れみ合う」ということでしょう。理不尽に直面した同士の「憐れみ合い」でしょう。)

 カミュは「ペスト」という理不尽な事態に、社会一般を象徴させていたのだといわれています。
 ありありとした理不尽な事態の襲来はなくとも、通常の姿での社会それ自体が理不尽なものと認識していたのだと思われます。
 我々一般の感覚は、通常の姿での社会において数多くの理不尽を感じつつ、それは個別の克服しうる理不尽であると考え、社会それ自体が理不尽であるという認識にまでは至ってはいないといったところでしょう。
 そういう中で、我々は3.11というありありとした理不尽な事態に直面することとなりました。
 この事態が我々の社会全体への認識を変えることになるのでしょうか?
 世の中へのスタンスを変えることになるのでしょうか?