2011年7月1日
人間の知的能力として、「記憶力」「論理的思考能力」「直観力」といったものが考えられます。
それぞれの能力はそれぞれ優れていることが望ましいことはいうまでもありません。
しかし、例えば「記憶力」については、受験というものが、本来は受験者の能力全般を合否の判断基準とすることを理想としつつ、事実上「記憶力」のコンテストになってしまっていることで批判されていることに象徴されるように、知的能力のうちで主役的地位に位置付けられている能力ではありません。
また、「直観力」については、宗教、芸術の世界においては大いに尊重されてはいますが、俗世においては往々にして客観性を欠いた、一人合点の、恣意的なものとして、十分な評価は与えられていないのが実情です。
こう考えますと、知的能力の中で信頼性が高く、いささかもその評価が傷つけられることなく、知的能力の中で不動の地位を保っているのは「論理的思考能力」であるように思えます。
「理屈っぽい」という人の性格に批判はあっても、「論理的思考能力」が優れていること、「論理的思考能力」に能力が偏っていることに対する批判というものはおそらく誰もが聞いたことはないでしょう。
このような事情から、もちろん「記憶力」によって評価されて経済的に、社会的に評価されている人もいますし、「直観力」によって経済的、社会的に高い地位を得ている人もいますが、経済的に、社会的に最も高く評価され、また世間一般から期待されている能力としては「論理的思考能力」が一番ということが言えるでしょう。
ここで「論理的思考能力」とは、ものごとを筋道立てて考える能力、因果関係のつながりを説得的に語り得る能力と考えておきましょう。
向かうところ敵なしの、盤石の基盤に支えられている感のする「論理的思考能力」ですが、実は弱点はあるのです。
すなわち、「論理的思考能力」が力を発揮するためには、条件があるのです。
無条件で、普遍的に「論理的思考能力」が高く評価されるわけではないのです。
「論理的思考能力」が優れていることによって、経済的、社会的に高い地位を獲得している多くの人々がいますが、彼らの今日の地位は条件に恵まれていたがゆえ、とも考えられるのです。
さて、その条件とは何でしょうか?
1つは、その社会における目的が明確であることです。この場合、目的がないということが明確である場合も含みます。
言い換えれば、何らかの到達、成果、実現を評価・判定する基準が社会にあるということです。
それであればこそ、その基準に合った何ものかを見出したり、そこへ至る道を指し示したりする能力として「論理的思考能力」はその存在価値が高く評価されるでしょう。
目的があいまいな社会、評価基準が不明確な社会においては、「論理的思考能力」が生み出すものとて、いったいどういう価値があるというのでしょうか?
そういう社会では、「論理的思考能力」はただ、単なるエンターテイメントにしかすぎないかもしれません。
もう1つの条件は、宇宙、自然、そして人間社会に一定の秩序、言い換えれば法則性があるということです。
秩序、法則性があるからこそ、あるいはあると信じられているからこそ、その秩序、法則性を追いかけて、捕まえる能力である「論理的思考能力」が意味ある能力たり得るのです。
もし、この世に秩序、法則がないとしたら、この世が無秩序、無法則の混沌とした世界であったとしたら、「論理的思考能力」とはいったい何だということになるでしょうか?
筋道を立てても、因果関係を語っても、それは実在しないのですから、「論理的思考能力」がもたらすものは、再び、人間同士の狭い楽しみ、すなわちエンターテイメント程度のものに堕してしまうことになるでしょう。
さて、3.11の災厄を契機に、社会の目的についての合意形成の困難性はますます深まっているように思われ、3.11を科学の挫折として捉えたがる傾向の強まりの中で秩序、法則性に対する信仰は衰微しつつあるように感じられます。
「論理的思考能力」を持ってるがゆえに社会に君臨してきた知的貴族階級に革命の危機が迫ってきているのかもしれません。