2002年2月18日

大橋巨泉が参院議員を辞職したことを私は3日朝日掲載の巨泉
自身の弁明にならない弁明の文によって知ったのでした。
その時期やや不規則な生活が続いていたためなのかもしれませ
んが、このようなかたちで巨泉の辞職を知ったことを、ニュースによ
って知らされたのではなかったことを、私はいいことだと感じました。
巨泉の小児病は公器たるマスコミが大きく取り上げるに値しない
と思うからです。

この巨泉の議員辞職について、赤坂真理という(私からみれば)若
い女性作家が8日朝日夕刊に「巨泉氏辞職と外相更迭劇」という文
を寄せています。
「『外部』構造へ一石・『内部』問題に終始」という副題が付けられて
いるこの文において、赤坂は次のように巨泉辞職を評価しています。

「 大橋巨泉参議院議員の電撃辞職のほうを(外相更迭劇に比べて)
私は重くみたい。そちらのほうが、本質的な希望がある。」
「 大橋巨泉一人が、その時、『構造』を外から大局的にみる発言を、
外に向って、したのだった。………現実的な判断に感じた。」
「 内部のことが内部で処理される(潰される)現実がある限り、……
…『外』から爆弾発言をした方がよいと大橋は判断し、実行したの
だろう。その勇気を評価する。」

「鋭い社会評論でも注目される」という赤坂が、若いにもかかわらず、
女性であるにもかかわらず、作家であるにもかかわらず、何と甘い採
点を巨泉辞職にしているのでしょう。
「若さ」も「女性」も「作家」も、それだけではやはり信用しがたいのだ
という「本質的絶望」を感じさせられます。

表現によって社会に関わろうとする人間、他者に影響力を行使しよ
うとする人間にとって、それは政治家、宗教家、学者、芸術家、テロリ
スト等を含みますが、そのうちのどの道を選択するかは、社会の問題、
社会の病理をどのように把握しているのかということを表わすのであ
り、その人間の本質に関わる問題です。
もちろん、選択の変更を許さないという意味ではありませんが、選
択の変更には社会の問題、社会の病理の把握及びそれへの自己の
関わり方についての厳しい判断が背景になければなりません。
巨泉は2度にわたって、しかも短期間のうちに、すなわち政治の「外
」から「内」に入ってきて、またすぐに「外」に出て行くという選択変更を
極めて安易に行っています。最初の選択にも次の選択にも厳しい判断
があったとは到底思えませんし、3日朝刊の「弁明」にも聞くべきところ
は何もありません。(ここに引用する気にもなれない。)

エンタテイナーとして政治を茶化したのだというならば、まだ彼の選
択は理解できるのですが(週刊誌は面白がって記事を書いており、彼
の目的がエンタテイメントであれば、それは実現しています)、そうも言
えないところが彼の似非知識人たるところであり、彼の「お年」でしょう。

( ひょっとして赤坂真理もエンタテイメントとしてあの文を書いたのでし
ょうか?そうだとすると私はまんまと「若さ」と「女性」に乗せられてしま
ったことになります。くわばら、くわばら……)