2002年3月14日
鈴木宗男は、自民党から離党させられるべきだし、議員を辞職すべ
きだし、一市民としての制裁を受けるべき、すなわち刑事事件の被告
とされるべきだと思います。
しかし、そのことはあまりに当たり前のことであり、この通信で取り上
げたいのはそのような当たり前のことではありません。
私は、(衆)予算委での鈴木宗男の証人喚問をビデオ収録しました。
それは決して証言を冷静に分析しようなどという目的ではありません。
鈴木宗男のみじめな最後を「楽しむ」ためでした。
権力をかさにきて多数の人々の人格を深く傷つけ、自殺にまで追い込
むことまであったあの挑戦的で獰猛な目つきが、野党議員の追及により
伏し目がちになることを「楽しむ」ためでした。本質に迫られないと見るや
殊勝な言葉さえ吐く不思議な自信に満ちたしたたかなペラペラ口が、しど
ろもどろになることを「楽しむ」ためでした。(追及のテクニックの甘さにより
十分に楽しめなかったことは残念です。)
そして、その気持ちの中には、卑しき感情、恥ずべき感情である「いじ
め」の気持ちがあったことがはっきり認められます。
鈴木宗男に対するマスコミの報道振り、それを歓迎する国民全体の感
情にも、「いじめ」の気持ちがあったことは否定しがたいでしょう。
その「いじめ」の気持ちをそのままにしておいて、我々は一般の「いじめ」
を非難する資格があるのでしょうか。
鈴木宗男の「悪」があまりにも明らかだということで、我々の「いじめ」の気
持ちを肯定することができるのでしょうか。
もし、我々がここで自己弁護するのならば、我々は「いじめ」の本質に迫る
ことはできず、我々に「いじめ問題」を取り扱う資格はないし、意味のある解
決の方向に向かうことはできないと思います。
すなわち、「いじめ」の原因が妥当であれば、「いじめ」は肯定されるという
ことになってしまうからです。
我々は、家庭で、職場で、またその他各種の人間関係の中で、さまざまな
感情を抱き、感情を起伏させ、小は相手に返す表情から大は政治活動に至
るまでの対人行動をとっています。
そして、残念ながら、往々にして、それらの感情、行動の間の相互矛盾の
有無を検証しようとする精神の力を我々は発揮しようとしていません。極めて
あいまいな自己肯定的、自己弁護的な気分によって、それらの感情、行動の
相互矛盾を放置しています。
そのような限りにおいては、たぶん人間は進歩しないし、社会が洗練されて
いくこともないでしょう。