2002年4月4日

前回の続きです。

まず、「アジアをはじめとする発展途上国の経済発展のために民主主義を
制限すること(=基本的人権の制限)は必要か?」と問題を立ててみます。

すべての先進資本主義国の歴史において、資本主義のスタート時に国家
による強権発動があったという事実は私の心を暗くします。
資本主義がスタートするためには、労働者と資本(要するにお金)の蓄積が
必要であることは、今やはやらなくなってしまったマルクスの指摘するところで
す。
労働者を作り出すためには、伝統的生活を営んでいた農村の人々を無理
矢理そこから追い出さなければなりませんでした。そこで国家の強制力が使
われました。
また、相対的には小さな資本で資本主義をスタートさせることができた資本
主義初期のイギリスを除き、イギリスに追いつく必要のあった国々(日本もそ
のうちの一つ)では、国家が民間に代わって資本の蓄積をしなければなりませ
んでした。要するに重税の賦課です。
労働者の創出、資本の蓄積、いずれのためにも国家の強権発動があった
のです。
歴史は民主主義の制限の必要を示唆しています。


歴史の示唆するところに従わなければならないのでしょうか?当時の条件と
はちがう現代の事情はないのでしょうか?

ちがいのその1は、かつてとはちがい現代文明が実現した高度の生活水準
は農村部の伝統的生活水準と格段の差があるということです。やり方次第では、
その高度の生活水準を提供することによって、強制でない、おだやかな労働力
の移動を起こすことが可能であると考えられます。

ちがいのその2は、かつてはなかった基本的人権と民主主義を標榜している
先進資本主義国の資本の存在です。要するに発展途上国にとっての外国資本
は、不十分ながらも基本的人権と民主主義の監視下に置かれており、かつて
のような非人道的収奪は許されない可能性を持っています。そのような外国資
本がかつての国家による資本形成の必要を減じる役割を果たすことができると
考えられます。

この2条件の活用のためには、先進国の民主主義的立場からの協力が不
可欠ですが、この2条件を活用することによって、アジアをはじめとする発展途
上国の経済発展は、国家の強権発動を伴うことなく実現する可能性があると考
えられます。

また、国家の強権発動による経済発展の場合、国家と結びついた特権階級
の形成と大量の低賃金単純労働者(しばしば暴力的肉体的拘束を伴う)の固定
化をもたらせ、民主主義的国家への移行には政治的困難=流血の惨事が不
可避です。
更に、自発性、意欲を必要とする現在の先端産業にとって低賃金単純労働
者は不適であり、仮に一定の経済発展を遂げたとしても、低賃金単純労働者
を前提とする産業構造では後進的地位からの脱却は不可能です。

そうであれば、多少遠回りでも、アジアをはじめとする発展途上国にとって民
主主義的発展を目指すことが得策ということになるのではないでしょうか。

第2の問題は次回に取り扱います。