2002年4月16日

前回の続きです。

我々の社会は、「ヒューマニズム」の原理を採用しています。
それは正しいか、正しくないかという問題ではなく(それを判定する物
差しを我々はたぶん持っていないのです)、「ヒューマニズム」の原理で
いくのだという決意をしているのです。

生殖医療新技術は、この「ヒューマニズム」の原理を犯すものとなる
可能性をもっています。
生殖医療新技術によって、生まれてくる子どもを「選択」することが技
術的に可能となっているからです。
すなわち、ある種の子どもが生まれるために特定の卵子、精子がほ
しいという需要、逆に特定の卵子、精子の拒否に対して、生殖医療新
技術は十分に対応することができます。DNA分析の発展によって、その
技術は今後ますます精緻化するにちがいありません。おそらく、資本主
義市場経済である我々の社会において、精子、卵子に対する需給状況
は価格ランクというかたちで人々の前に明らかになるでしょう。また、胎
児段階における検査技術の発展によって、需要にかなっている胎児か
否かが判定され、中絶に至ることも不可避と考えられます。(障害児の
中絶ということが、すでに深刻な問題になっています。)

精子、卵子、胎児の段階における「選択」「差別」「ランク付け=価格
付け」は、当然すでに生まれている人間の「選択」「差別」「ランク付け」
を反映するものであり、精子、卵子、胎児段階でそれを許すことは、す
でに生まれている人間の「選択」「差別」「ランク付け」を許すことに結び
つくことになります。
言うまでもなく、このことは、我々が採用を決意した「ヒューマニズム」
の原理を真っ向から否定するものです。

要するに、生殖医療新技術による子どもの「選択」は、我々の社会の
大原則である「ヒューマニズム」の原理の破壊であり、原理の破壊とは
すなわち我々の現在の社会そのものの破壊ということになるのです。

生殖医療新技術に対する需要にいくら強いものがあったとしても、社
会の崩壊というリスクを払ってまで採用すべきものでしょうか?
生まれてくる子どもの「選択」を規制できないのであれば(医療行為と
いうのは密室での作業であるため、規制の実行はむずかしいというの
が実情です)、そして精子、卵子、胎児の「選択」「差別」「ランク付け」を
避けることができないのであれば、それによる社会の犠牲があまりにも
大きいと考えられるため、前回通信とやや異なることになりますが、生
殖医療新技術は放棄されなければならないのではないでしょうか。「闇
」で実行するものは厳罰に処せられなければならないのではないでしょ
うか。

ここで忘れてならないのは、生殖医療新技術の規制という方法以外
に一つの重要な対処の仕方があるということです。
それは、生殖医療新技術を受け入れる社会のほうを、生まれてくる
子どもを「選択」などしない、精子、卵子、胎児の「選択」「差別」「ランク
付け」などはしない社会に変えるという方法です。
この方法こそ、我々の社会が「ヒューマニズム」の原理の採用を決意
していることに対するまっとうな方法であり、我々の社会の原理をその
極めて不徹底な現状から救い出す道であるとも思われます。
生殖医療新技術がその契機となるならば、その時こそ生殖医療新技
術はもろ手を上げて歓迎されてしかるべきでしょう。