2002年4月18日

時期によって取り上げられる課題に変化はあるものの、「教育問題」は
一貫して問題であり続けています。そして、満足できる回答を得るのに失
敗を続けています。
その原因は、「教育問題」として取り扱われている問題を「教育問題」とし
てしまうところにあるのではないかと思います。

「教育問題」として扱われている問題は、広く大人と子どもの付き合い方
という問題です。 にもかかわらず、その問題を「教育問題」としてしまうと、
実態に合わない、非現実的な大人と子どもの関係を前提に置いてしまうこ
とになります。
すなわち、「教育問題」というふうに問題を設定した場合の前提は、完全
な大人と不完全な子どもという前提です。社会を知っている大人と無知な
子どもという前提です。
この前提がまちがっていることは言うまでもないでしょう。完全な大人も
社会を知っている大人も見当たりません。
大人と子どもの程度の差というのはあるでしょうが、江戸時代のような変
化の少ない、固定的な社会の場合と変化の大きい複雑な現代社会の場合
と比べると、現代社会においてはその程度の差は極めて小さくなっていると
考えなければなりません。

完全・無謬を建前としている霞ヶ関文部省(現文部科学省)が「教育問題」
に失敗を重ねるのは、前提がまちがっているのですから当たり前なのです。
文部省に限らず、子どもを教育するという立場で問題を考えれば、まちが
えるのは当たり前なのです。

大人は不完全な人間として、同じく不完全な人間である子どもと、お互い
の付き合い方を、 さらに進んで社会全体の問題を相談するという立場に立
ってこそ、 はじめて「教育問題」は「教育問題」という限界を突破した展望を
開くことができると考えられます。
「教育問題」のガンは大人の高慢、大人の生意気にあると言い切ってまち
がいないでしょう。