2002年5月13日
世界の「秩序」についての説明という点において、宗教は科学と同じ
方向性を持っています。
近代科学はイスラーム教、キリスト教を背景に発展したものです。
キリスト教(ユダヤ教、イスラーム教を含めてセム的一神教)では世界
は唯一神が創造したものです。この唯一神が創造した世界がいかに「
秩序」だったものであるのかを証明しようという意欲が近代科学を生ん
だのです。
しかし、科学は「秩序」をすべて明らかにすることができていません。科
学は発展したものの、不条理(=無秩序)にこの世は満ち満ちています。
人間界を考えれば、科学の発展により不条理はむしろ拡大している様相
を呈しています。近代に入っての宗教の衰退と科学の発展(=世俗化)に
よって、むしろ人々は不条理による狂気の状態に一層おかれるようにな
っているのが実状です。
世界には「秩序」があるという説明、科学が説明しきれない説明を人々
は再び要求しています。ここに、現代において宗教が再評価され、隆盛
を示している背景があるのです。
科学はその発展によって莫大な成果を上げました。
宗教による世界の「秩序」の説明は、しばしば科学の成果と矛盾してい
ます。近代科学以前にその基礎を築いた宗教は、宿命的に近代科学の
成果に反する内容を引きずっています。近代科学以降に生まれた宗教も、
教祖という個人に依存しがちな性格のため、世界の理性が総動員されて
いる科学の成果を取り入れることに失敗しています。
科学は、現在のところ、大きな現実妥当性、有効性を持っているため、
広く人々に信頼されています。この科学との間に矛盾点をもつがゆえに、
宗教は怪しい、インチキ臭いというレッテルを貼られてしまうのです。
宗教は、世界の「秩序」の説明というその本質から、そのことについて
科学との争いをこれからもずっと余儀なくされるのです。
ともに不完全な両者の勝負の帰趨は、現在のところ明らかでないと思
えます。
さて、以上のように宗教は「秩序」を語るところにこそ本質があるという
のが正しいとすれば、「秩序」を語らずして(あるいは安直、いい加減な「秩
序」を語り)、利益(「癒し」というような精神的利益を含む)を説く宗教は、宗
教という名にも値しないインチキということになります。