2002年5月30日

ある考え方に立てば、人間も自然の一部であり、したがって人間の
すべての行為は自然の一部であり、反自然的行為とされている生態
系破壊、生殖医療、核開発なども自然の一部ということになるはずで
す。
にもかかわらず、あるべき自然と人為が対立しているという考え方
が一般的であり、人為の介在しない自然に対する崇拝が優勢なのは
何故なのでしょう。

完全なる孤独、 絶対的孤独、 そういうものがあるかどうか分かりま
せんが、それを仮定してみましょう。自分がそういう状態に置かれたと
想像してみましょう。
人々からもまったく疎外され、頼るべき唯一神にすがることもできな
いという状態です。(ここで「唯一神」としたのは、世界を「人間」「自然」「
人間、自然を創造した超自然=唯一神」という3層構造でとらえたため
です。)

明らかに、頼るべきもの、語り合えるもの、慰められるもの、友としう
るものは、「自然」しか残っていません。

現代の自然志向、日本文化の伝統的自然志向、ヨーロッパ18、19
世紀ロマン主義の自然志向は、その微妙なニュアンスこそ違え、いず
れも人間不信と唯一神不在(あるいは不在の不安)のもたらしたものと
考えられるのです。
そして、孤独の完全度、絶対度が高ければ高いほど、自然が人間に
もたらすメッセージの力は強く、その結果は各種芸術に反映されている
と考えられます。

なお、仏教においては、上記のような3層構造の考え方はとらず、す
べてが一つの同じものと考えます(=梵我一如)。自然を人間の対立物
とは考えない思想をもたらすとともに、人為に対する批判力が弱い傾向
をも、またもたらせます。