2011年5月22日(出来たて)
次に掲げるような庶民のてんこ盛りの要求は、要求として正当です。庶民は充たされていないからです。
「心穏やかに、時間に追われない、ゆったりとした生活を送りたい。」
「飢え、病、失業などによる苦しみのない生活を送りたい。医療、年金、介護、子育てを社会的に保障してもらいたい。」
「物質的に充たされた、豊かな生活を送りたい。」
「早急に被災地を復興し、被災者を救ってほしい。」
「原子力に依存した危険なエネルギー政策はやめてもらいたい。」
「東電の損害賠償のための電力料金値上げはしないでもらいたい。」
「震災復興のための増税はしないでもらいたい。」
「デフレを脱却して早く景気を良くしてほしい。」
…………
…………
…………
しかし、これらの要求が正当であるのは、庶民の立場からの要求だからであり、統治される立場からの要求であるという意味において肯定されるものです。
これらの要求には相互の間に整合性がなく、日本経済の置かれた世界史的位置、社会システム上の限界から同時並行的要求実現は不可能だからです。
仮に、統治する立場からこれらの要求の全体を実現可能と主張するとすれば、それは実情を無視した、大衆迎合的な、不誠実な、政治的詐欺と言わなければなりません。(景気を良くすれば、すべてがみんなうまく回転していくというような説明がその象徴。)
統治する立場(具体的職務によってその立場が規定されるわけではありません。本人が採用するスタンスです。)からは、これらの要求の実現可能性、あるべき優先順位、社会統治上の効果を冷静、客観的に検討し、クールな判断をしなければなりません。
誰もがハッピーな大盤振る舞いはありえないので、当然のことながら、統治する立場からの判断は、統治される立場から厳しく批判される宿命を負っています。
さて、我々は、評論家、コメンテーター、その他それぞれの分野の専門家のような顔をして登場する人々の、様々な政策批判、政局解説、提言、思い付き、皮肉、揶揄、追従、悲憤慷慨、悲憤慷慨的演技に、テレビ、ラジオ、新聞、週刊誌等々で日々接触しています。
我々は、玉石混交、相互矛盾の彼らの言動がいかなる立場でなされているのかを見極めておかなければなりません。
その見極めによって彼らの言動の仕分けが多少とも可能になります。
見極めなしに彼らの言動を鵜呑みにすることは、統治される立場にあり、かつ統治する立場にある我々の(デモクラシーとは民衆による統治という意味です。)政治的判断が狂うことになります。
考えられる彼らのスタンスは次のようなものです。
「統治される立場から、ある特定の要求を後押しする。」
「統治される立場から、統治される立場の人々に一時的慰み(床屋政談)のネタを提供する。」
「統治される立場から、自己顕示欲に導かれて自分の正義漢ぶりをアピールする。」
「統治する立場から、権力維持、あるいは権力奪取を図る、あるいはその後押しをする。」
「統治する立場から、諸々の要求の実現可能性、優先順位を説明する。」
願わくば、彼ら自身が自ら、自分のスタンスを自己分析してほしいものです。
そして、我々自身もまた、自分のスタンスを反省していく必要があると思われます。