2002年7月18日

樹木におおわれた山があります。ある人には、ただ樹木におおわれた山
としか見えません。少し知識のある人は、あそこが天然林、あそこが人工林
というように森の構造が見えます。もっと知識があると、あそこの部分は何
の木、こちらの部分は何の木、孤立した1本は何の木と、より複雑な森の構
造が見えます。さらに知識があると、あそこの人工林のあの部分は成長が
遅れている、あそこの部分は成長が進んでいるなどといったことまで見るこ
とができます。

見ている対象は同じでも、見ている人によって見えるものは大いに異なる
ということです。

唯心論、唯識論というものが仏教の世界にあって、「存在するものは心の
み。世界もまた心の中にあるのみ。」などと日常感覚とは違うことを言うので、
勉強の入り口のところから挫折してしまいがちなのですが、上の例によって
唯心論、唯識論を理解できるような気がします。

キーワードというか、理解を妨げる原因となる言葉というか、それは「 」内
の「世界」という言葉です。「宇宙」というときもあると思います。
この場合、「世界」とか「宇宙」とかいう言葉で表わされているのは、単なる
知覚の対象をいっているのではないのであって、ある「構造」あるいは「秩序」
であると考えられます。

知覚の対象(=樹木におおわれた山)から「構造」・「秩序」(=樹木の分布
状況)を見出すのは、見る者(=心)それぞれによるのであって、見る者(=心
)によってこそ「構造」・「秩序」(=世界・宇宙)が形作られるのである、あるい
は「世界」(=「構造」・「秩序」=樹木の分布状況)は見る者(=心)にあらかじ
め用意されているものであって、それなくしては「混沌」があるのみで「世界」は
なし、というのが唯心論・唯識論なのではないかと思われるのです。

このように考えると、唯心論・唯識論の入り口から少しだけ中に入っていくこ
とができます。
正しい入り口かどうか、保証の限りではありませんが……