2002年8月29日
30年以上前、東大生が本の万引きで捕まって、万引きの動機を「escape
from ennui (倦怠からの逃亡)」と高踏的に警察に語って話題になったこと
がありました。
万引きを正当化するわけではありませんが、およそ「日常」とは「繰り返し」
と同義であり、倦怠に満ち満ちたものとならざるをえないという性格をもって
います。
そして、その「日常」から完全に逃れることは不可能です。というのは、人間
の生物学的生命を支えるものこそ「繰り返し」であり「日常」であるからです。
しかし、生物学的生命の維持だけでは満足できない人間という動物は、逃
れがたい「日常」の中に「非日常」を必ず求めるものです。
この「日常」の中に「非日常」をどれだけうまく取り込めるか、あるいはどの
ような「非日常」を「日常」の中に取り込んでいるかによって、その人間の価
値を評価できるとも言えると思われます。
万引き常習者は、万引きが「日常」と化し、別の「非日常」を求めざるをえ
なくなるでしょう。
平和時の人間にとって「非日常」である戦争は、戦争の渦中にある人間に
とっては「日常」であり、戦争の渦中では戦争ではない「非日常」が求められ
るでしょう。(好戦主義者の認識の誤りはこのことの軽視にあります。)
恋愛の共通にして最大の敵は「日常化」という敵でしょう。
このように「日常」と「非日常」とは、その内容によって定まるものではなく、
その組み合わせによって定まってくるところにむずかしさがあります。
アルコールによる酩酊、テレビドラマによる疑似非日常体験、スポーツ観戦
による興奮などは、その手軽さによる「繰り返し」によって「非日常」の「日常化
」の危機に至っていると思われ、その後に更に求められる「非日常」の内容が
懸念されるところです。
また、推測すれば、人々に「非日常」を提供することがその仕事である「芸術
家」の不幸は、その仕事が彼らにとって「日常」とならざるをえないところにある
のではないでしょうか。