2011年5月7日(出来たて)

 今回の震災について、「第3の敗戦」というようなことを堺屋太一氏が言っているそうです。
 堺屋氏の場合は幕末、明治維新をもって武士国家日本の第1の敗戦、第2次世界大戦敗北をもって第2の敗戦とし、今回の震災をもって第3の敗戦としているようです。
 それに倣えば、私は1980年代からの、バブルを経過して今日に至る日本の経済状況を第3の敗戦とし、単に極端な苦境に陥ったという意味ではなく、その苦境の原因に人的側面が強くあるという意味において、今回の震災を「第4の敗戦」と呼びたいと思っています。

 456、463、464の通信により、計画的避難区域の設定の科学的根拠が極めて不十分であることを指摘しました。
 「不十分」というのは、間違っているということではありません。
 判断する基礎となるデータを十分に持っていないということです。
 その空隙を埋めるために、いかにも大胆な仮説「直線しきい値なし仮説(Liner
Non-Threshold hypothesis)(LNT仮説)」を採用して国際基準とし、今回日本はそれを採用しているわけです。
 そして、「20mSv」という基準は、外部被曝(体の外にある放射性物質から出た放射線を浴びること)についての基準であり、健康被害防止を考えるにあたっては内部被曝(放射性物質を空気、食物等の吸入、摂取により体内に取り込み、その放射線の影響を受けること)についての考慮が当然必要です。
 人が直接的に摂取する飲料水、牛乳、野菜、魚についての基準、間接的に摂取することになる牧草、土壌についての基準は、内部被曝を想定した基準です。
 これらの基準はLNT仮説の延長線上にあり、更に思いきった仮定を設定しているようであり、根拠乏しい基準によって多くの人々の生活を奪ってしまう現状に対して、基準を算出し、その基準の何たるかを知る科学者は心を痛めているに違いありません。

 しかし、基準を導き出した科学者を批難することはできません。科学者は、基礎となるデータがほとんどない状況で基準を導き出すという困難を強いられたのです。
 南洋の孤島の防衛を命じられ、武器弾薬の補給なしで派遣されて玉砕した帝国軍人を批難することができないのと同じです。
 与えられた状況の中での最善を尽くしているのだと思います。

 科学者は、実験、観察によって事実を把握し、把握された事実に基づき自然の法則を発見するという使命を持っています。
 科学者としては、その使命に応えて、その知力、体力をふりしぼって働くことが、彼らの社会的貢献です。
 個人としての科学者はそれをもって「よし」とされるべきでしょう。
 しかし、現代は、科学が社会的にマイナーな存在であった時代、星占いと錬金術の古代、中世とは違います。
 科学が社会の一つの大きな装置となって社会に極めて大きな影響力を持つに至っています。
 したがって、何を科学研究の対象とするか、知的能力に優れた人材をどの研究分野に配置するかは、社会全体としての判断事項です。
 個人の財産あるいはパトロンたちの支えによって趣味的に科学研究が行われていた時代とは違うのです。

 そういう意味で、放射線防護の分野で必要な研究を怠り、必要なデータを蓄積してこなかったこと、そして今回の震災に対応することができず、何万、何十万という人々に重大な損害を与え、与え続けているということは、我が国科学界の大きな「ポカ」と言わなければなりません。
 その背景には、原子力問題が一貫してイデオロギーの問題、政治の問題であり続け、科学者同士の冷静な議論を妨げてきたという事情も垣間見えるわけですが、そのことが科学界全体を決して免責するものでないことは言うまでもありません。

 なお、外部被曝と内部被曝の違い、それぞれの防護方法の違いといった基本的なことが、ほとんど説明されていません。
 その結果、「放射能は怖い」という恐怖心が強まるだけで、無用の風評被害の原因にもなっています。
 「第4の敗戦」の原因は、科学界のみならず、このような基本的な説明を怠っている我が国の知的階層全体にあるといえるでしょう。