2011年4月25日(出来たて)

 年間20mSVというレベルの数値は人々に避難を強制するようなレベルのものではなく、その数値の意味を十分に説明して、対応は人々の判断に委ねるべきであること、委ねざるをえないことを前回述べました。
 なぜ、それにもかかわらず、政府は正気の沙汰とは思えないような過酷な強制を人々に課すのでしょうか?

 人々がそれぞれに判断をして、様々な対応行動をとること、それを政府は嫌っているのだと思います。それは無意識的な、行政の性(さが)かもしれません。
 行政は人々のバラバラな行動に対応しなければなりません。それは行政にとって、とても大変な負担です。
 人々が一律の行動をとってくれれば、行政は対応しやすいのです。
 人々がバラバラな行動をとることは、公共サービス提供義務を負う行政にとって、とても非効率な状態です。
 人々が個性なき、のっぺらぼうであること(エッグ・マン)であることが行政効率上は好ましいことなのです。

 現代日本において、このように行政効率の観点を優先させて、人々に情報を十分に提供せず、必要な説明を行わないということは決して許されることではありません。
 それは、人々に必要な情報を提供せず、そのことによって人々の自由を奪い、人々を行政の効率性のために犠牲にするということです。
 人々を奉仕の対象とせず、統治の対象とするということ、すなわちおとなしく言うことを聞いてくれればよいという存在として人々を取り扱うということです。
 戦前の内務省的思考法であり、今日の民主主義日本では犯罪的行政と言わなければなりません。

 日ごろ、情報公開、透明性を強く要求しているマスコミは、この状態に対してなぜ何も言わないのでしょうか?
 十分な情報のもとでの人々の自由な行動が経済的繁栄の基礎であることを強調してきた自由主義市場経済論者の人々は、実は情報公開、自由行動より行政効率を優先する統治者側の人たちだったのでしょうか?
 科学者によって構成されており、放射線規制値について責任を負うはずの原子力安全委員会の不十分性に対して、日本の科学者はなぜ沈黙を守っているのでしょうか?
 計画的避難地域の人々数万人の生活が、不誠実な行政と各界指導者層の知的怠惰によっておびやかされています。