近・現代社会に対する批判は大雑把に言って二つの方向からなされて
いると考えられます。

                     2002年10月15日

 一つは、近・現代社会によって滅ぼされた旧社会の方向からの批判で、
節度なき欲望に基づく政治の衆愚化、文化の低劣化などを問題にするも
ので、貴族的立場からの批判ともいえるでしょう。
 もう一つは、自由とか平等とかの近・現代社会の理念(それは旧社会を
破壊する時に掲げられたものです。)が不十分にしか適用されていないと
いう批判で、近・現代社会における弱者からの批判といえるでしょう。

 さて、近・現代社会に同調できぬ者として、自分の基盤はどちらにあるの
かをよく考えてみて、どちらかといえば前者の立場のほうが強いようだと思
い至りました。

 およそ小学校高学年から中学校の時期にかけて、私は多くの仲間たち
とともに「少年王国」ともいえる独立性の高い社会のメンバーでした。その
社会は大人たちの世間的価値観が介入しない良質の社会であり、「強さ」
「かしこさ」「いさぎよさ」「勇気」「思いやり」といった価値が支配している社
会でした。
 しかしながら、その「王国」は高校受験という攻撃にあっけなく滅ぼされ、
その後、私を含めた「王国」のメンバーは、バラバラにされ、難民として拠
り所なき生活を余儀なくされたのでした。

 「王国」を滅ぼされ、多くの仲間を失った恨みが消えることなく続き、今日
の私の基盤が形成されているのです。

 世間はさらに巧妙になったのか、現在では子供たちが一時的に「少年王
国」を創ることさえ許さない構えをとっています。
 滅ぼされる「少年王国」さえもてない子供たちは、恨みの対象を認識する
こともできず、方向性の定まらない苛立ちを抱くのみです。