2002年10月17日

 中学校の卒業式直前の謝恩会(こんな言葉は今も残っているでしょうか?)
の日、私は学校でやや派手なケンカをしました。
 謝恩会の準備をする女生徒にからんで準備のジャマをする奴に平手打ちを
くらわせたのです。
 こちらは卒業直前の興奮状態にあったと思われ、また最後のカッコよさを示
そうという稚気もあったと思われます。いずれにしろ、ほめられたケンカではあ
りませんでした。

 さてその後、PTAのおばさんたちにそのケンカが次のように分析されている
ことを母親から聞きました。
 すなわち、私が卒業生総代(こんな言葉も今残っているでしょうか?)に学校
から指名されなかったことを怒って、ケンカを始めたというのです。
 
 もとより卒業生総代などになることに何の魅力も感じていなかった私(卒業に
あたり、もっと重大な問題を私は抱えていました。)は、おばさんたちのもっとも
らしい分析に世間というもののいやらしさを感じました。
 世間というところは、世間が持っているステレオタイプの人間観で人間行動を
理解し、それで安心していて、その理解が人間をおとしめていることに気づかな
い、そういうつまらぬところだということを、はじめて身近に感じました。
 
 それから数十年が経過しているわけですが、人間の理解度という物差しで今
の社会を眺めると、社会はいささかも進歩していない、むしろ後退している、そ
の後退にはステレオタイプ人間観に依存するマスコミの責任が大きい、と思え
ます。