2002年10月21日

 「驚異の映像で描く二つの強烈な個性▽初対決!芸人ビートたけし×映
画監督北野武の素顔に迫る」という「二人のTAKESHI」(19日(土)夜9時か
ら10時NHKTV)で合成映像による次のような対話がありました。

たけし「 そのよう、あの、神様とかさ、その宗教とかさ、あんだけど、神とい
    うのは、あの、いると思う?」
 武 「 わかんねえ…」
たけし「 生きていると、こう、なぜ我々はここにいるんだとか、なんだ宇宙
     はとかさ、宇宙はどうなってんだ、宇宙があって、あの、無限だっ
     ていうけど、その外に何があるんだとか、そういうのわかんない?」
 武 「 なんか、生きている意味もわかんねえのにだなあ、宇宙を語るなん
    て、図々しいと思うよ。」
たけし「 そういわれちゃうの。」
 武 「 生きている人間がわかんないんだから。うーん、死ぬのがこわいく
    らいなもんだ。」
たけし「 まあ、いいか。おれはまたひとりだ。わかんねえ。」(退場)
 武 「 なんだあの野郎。酒飲んでんじゃないか。あいつ、わけがわかんな
    いよ。ばか野郎!」

 ふざけたふりをしたこの対話には次のようなことが明確に示されています。
 すなわち、自分の中に自分を客観視するもう一人の自分を持つと(ビートた
けしにとっての北野武、北野武にとってのビートたけし)、自分の生きている
意味、存在している意味を必然的に問うことになるということ、究極的にはそ
の問いは神とか宇宙とか宗教とか、形而上学的な問いに至らざるをえないと
いうこと、です。

 「意味」を問うて、絶対に「無意味」だという確信を持つ者、「意味」の支えを
断念し、あるいは拒否する者こそが、真の無神論者、無宗教者です。
 一般に日本人が無宗教であるというのは、体系的な教義を有する特定の
教団に所属していないということにすぎないこと、「意味」を問うて「無意味」だ
という結論に至っているわけではないこと、少なくともぼんやりとした期待があ
ること、この対話にはこのようなことも表われています。