2002年11月21日
福岡市の市立小学校の通知表の社会科の評価項目に「国を愛する
心情」という項目が設けられていることが問題になっています。「国を愛
する心情」によって児童を3,2,1の3段階評価しようというのです。
設けられた政治的背景、各学校で採用された経緯、在日外国人子弟
への影響など様々な問題をはらんでいますが、本通信では本通信
らしく問題を考えてみたいと思います。
まず、「愛する心情」、要するに愛情の、その強さをいかに評価するこ
とができるのか、という問題です。
この問題は、男女のこととして私の大学時代の英語の講義において
講師(ジョイス研究家上島助教授〈当時〉)の雑談の中で提起された問
題でした。
学生の中に答える者はなく、講師が答えたのは、「愛情を直接評価す
るものがない以上、愛情のために何が犠牲にされたかによって評価す
るほかない。ゆえに、例えば愛のための死が崇高なものとされるのであ
る。」というものでした。(筋道をそれますが、学生のひとりがただちに「
先生は奥さんへの愛のために何を犠牲にされたのですか?」と質問し、
講師は答えられませんでした。)
国のために何を犠牲にしたかなどということで小学生を評価すること
が可能なはずはありません。
次に、国という抽象的なものを愛することができるか、という問題です。
その困難性、不可能性のゆえに、実際に国への愛は「日の丸」とか「
君が代」とかの国の象徴=代替物への態度という形をとることになりま
す。
これは、性の世界ではフェティシズムと呼ばれるもの(最近は「フェチ」
と呼ばれているようです。)で、例えば具体的女性を愛することができな
いのでそのハイヒールを愛好するというようなたぐいのもので、不正常
な、倒錯型の愛の形と位置づけられています。
小学生をフェティシズムで評価するというのも不正常で、倒錯している
としか思えません。
この通知表は校長会の「公簿等研究委員会」というところで作られた
ものだそうですが、校長先生たちが取り扱うには問題がむずかしすぎ
たのではないでしょうか。