2002年12月12日

 大江健三郎の最新長編小説「憂い顔の童子」において、主要登場人物、
ローズさんが英語版の「ドン・キホーテ」を読み続ける人として登場すること、
しばしば「ドン・キホーテ」の文章が小説に引用されていること、とりわけ冒
頭に「『わしは何者であるか、よく存じておる』と、ドン・キホーテが答えた。」
という文章が掲げられていること、そもそも表紙がギュスターブ・ドレ画「サ
ンチョと最愛の驢馬」であること、これらのことに象徴されているように、「ド
ン・キホーテ」の物語がこの小説で重要な役割を担っています。
 そして、それとは別に小林秀雄を読んでいたら、またそこで「ドン・キホー
テ」に遭遇しました。
 どうも「ドン・キホーテ」は「ただごとではない」と感じて、中公新書「ドン・キ
ホーテの旅(牛島信明著)」を読みました。

 その「ただごとではない」ということをこの「ドン・キホーテの旅」から引用し、
孫引けば次のとおりです。

「 かつて宇宙とその価値の秩序を支配し、善と悪とを区別し、個々の物に
意味を付与していた神がその席を立ち、ゆっくりと姿を消していった時、馬
にまたがったドン・キホーテが、もはやはっきりと認識することのできない世
界に乗り出した。〈至高の審判官〉がいなくなったいま、世界は不意にその
恐るべき曖昧性(多義性)をあらわにした。すなわち、唯一の神の〈真理〉が
解体され、人間によって分担される無数の相対的真理と化したのである。か
くして近代の世界が生まれ、それとともに、その世界のイメージであり、モデ
ルである小説が生まれた」(ミラン・クンデラ)

「 彼(ドン・キホーテ)はぬるま湯につかったようなこの日常のなかに、書物
=ポエジーを実現してみせようと意識的に試みただけであって、その限りに
おいては狂っているわけでもなんでもないのだ。………要するに彼はおのれ
の狂気を演じているということだ。そして演じるとは、おのれの言動を指揮す
る第三者的な目がおのれの裡にあることを意味する。」(牛島)

「 彼のヒューマニズムに深く根差した英雄性の教訓は、人生が影であり、夢
であると知りながら、あたかもそうではないかのように生きるところにある」(
ファン・バウティスタ・アバリェ=アルセ)

「 全身全霊でもって書物の英雄の模倣をしたドン・キホーテ、その一生をか
けて憧れの人のふりをし続けたドン・キホーテ、彼の演技はもはや彼の生の
営みそのものとなった。つまり、彼の演技は完全に彼の習慣となっていたの
だ。そして、他者との関係において、常習的行為、すなわち習慣と化した演
技とはとりもなおさず人格そのものではなかろうか。」(牛島)

 19世紀のニーチェの「神は死んだ」を待つまでもなく、17世紀のセルバン
テスの「ドン・キホーテ」において、神はすでにこの世から退場していたのでし
た。