2003年1月14日

 ある宗教のあるセクトの信者に次のような質問をしたことがあります。

「 あなたの信じている宗教の教えの中には、科学によって明確に否定
 された内容がありますが、そのことをどのように考えているのですか?」

 回答は次のようなものでした。

「 信じるというのは、論理を突き詰めていって到達するものではありませ
 ん。『直覚(=intuition)』によるものです。」

 この回答は、教義の無理な合理化をしようとしてしばしば外部の者をイ
ライラさせるようなものではなく、スマートな回答で、反論の余地を残さない
ものです。
 しかし、質問した私と回答した信者の間の言語の交換はこの回答によっ
て閉ざされています。
 「直覚」を持ち出すことによって、論理を運ぶことによる他者への説得性
という言語の機能がこの分野では働かないと宣言されています。
 「直覚」に至る状況、「直覚」に至る方法は語ることができても、「直覚」そ
のものを説得性をもって語ることはできません。

 科学がますます多くのことを明らかにするであろうこれからの時代に、宗
教はこの回答をした信者のようなスタンスをとるほかないでしょう。
 宗教がその周辺に配置していた倫理・道徳や宇宙の成立やその構造に
ついての説明を排除し、宗教がその本質(「秩序」と「意味」をこそ信じる)に
純化する方向であると考えられます。
この方向は、教義の違いにより対立してきた諸宗教の大同団結に道を開
くものではありますが、一方では非宗教者との間に決定的な断絶をもたらす
ものでもあると考えられます。