2003年1月9日
前回、「宗教から言語が排除される」と書きました。
すでに仏教では「無分別智」という言葉があり、最高の境地を示してい
るらしいのですが、ものごとを分別しないのですからそこでは言語は成り
立たないはずです。
禅では「不立文字(ふりゅうもんじ)」という言葉があり、悟りは言葉によ
っては書けない、文字は立たないという言語否定の言葉です。
年末に法事があり、ある宗派の形式によるものだったため、参列者の
ほとんどが読経を唱和する中に身を置く経験をしました。
そこでは文字に書かれたもの(お経)を読むという行為が集団でなされ
ており、外見的には限りなく言語的な行為です。しかし、難解至極のお経
を読むにあたって参列者たちは文字で示された音を声にするのみで、言
葉の意味を問題にしていないことに気づきました。言語の基本的機能で
ある何かを指し示したり、何らかの意味を表わすという意図が参列者た
ちにはまったく欠落しているのです。
言語の基本的機能を有しない、このような言語(類似)行為こそ、意図
せざるものでしょうが、言語を発しない沈黙という言語否定行為を超える
究極的な言語否定行為だといえるでしょう。