2003年1月17日

 我々の社会は「個人の自由」を尊重することを原理としている社会です。
当然この原理には「感情生活の自由」も含まれているはずです。
 しかるにテレビドラマ、ドラマ仕立てにされる事件報道、選手の努力物語
にされるスポーツ番組に象徴されるように、我々の社会は安っぽい感情の
押し付け、感情の強制に満ち満ちています。
 スイッチを切ればいいのですから感情の押し付け、感情の強制に抵抗す
るのは難しいことではないはずですが、人々は感情の押し付け、感情の強
制にむしろ積極的に身を委ねているように感じられます。
 なぜ、人々は自由の侵害に抵抗しようとしないのでしょうか?

 かつて「感動」「感激」という言葉は、それを「はしたない」という否定的な
意味合いでとらえていた時代もあったはずですが、今日では肯定的意味
合いしかないように思えます。
 現代社会には「感情豊かな生活」「感情あふれる生活」を良きものとする
信仰があるように思えます。それを「ドラマティック信仰」「ロマンティック信
仰」と呼ぶこともできるでしょう。
 その信仰があればこそ、「感動」「感激」を人々は激しく希求するようにな
っているのだと思えるのです。
 しかしながら、現実の生活に「ドラマ」「ロマン」がそうそうあるものではあり
ません。それゆえ、自由を捨てて、代替的な「感動」「感激」を提供してくれる
メディアに拘束されるほうを選択しているように思えるのです。

 対処方法は三つ。
一つは、自ら「ドラマ」「ロマン」の主人公となるような生活を選ぶこと。この
道はリスクが大きいというのが現実です。
一つは、「感情豊かな生活」「感情あふれる生活」に対する信仰を捨てるこ
と。すなわち「感動」「感激」を追い求めないこと。
もう一つは、押し付け、強制ではないところに自らの感情生活を開拓するこ
と。すなわち、一般にドラマティックとされていること以外のところに独自の感
情生活のネタ(=「poesy」)を見つける眼を持つことです。

 自由を理念とした以上、理念にできるだけ忠実に生きたいものです。