2003年3月31日
おそらく、日本型に改変される前のかたちの仏教は極めて論理的に厳密
なものであったでしょう。
そして、その神学論争に象徴されるようにユダヤ教、キリスト教、イスラム
教という一神教は、論理に論理を積み重ねる厳密さを持った宗教です。
それに対して、日本の信仰は非論理的で、穏やかで、他に対して寛大な
性格のものです。
この違いは何に基因しているのでしょうか。
以前にも書きましたが、宗教あるいは信仰は「この世には秩序がある。そ
の秩序は人間にとってやさしいものである。」ということを信じるところにその
本質があり、共通点があります。
仏教が生まれたインドにしろ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が生まれ
た中近東にしろ、日本に比べて自然ははるかに苛酷です。
果たしてこのような苛酷な自然の中に、人間にやさしい秩序があると信じ
ていいものだろうか。彼らの心配、不安は、それを確かめようとする強い要
求になったはずです。
そして、やっと手に入れた確信を壊すような他の考え方に強い反発を持っ
たはずです。
日本においても、人間にやさしい秩序か否かの不安を生じさせることはい
くらでもあったでしょう。
しかし、日本の場合は、不安の解消のためにあれこれ考えている間もなく、
春がやってきて満開の桜が圧倒的な事実をもって人間にやさしい秩序を証
明してくれるのです。
何で今さら理屈をこね回す必要があったでしょう。むずかしい理屈を考えな
ければならない方々はお気の毒といったところで、決して反発の対象とはな
りえません。
今年もお花見の季節です。お花見の信仰上の意義はイスラム教のメッカ
巡礼に匹敵するとも考えられます。
「敷島の大和心を人問わば 朝日に匂う山桜花」 (本居宣長)