2011年2月13日(出来たて)

 日本国民にとっての日本の農業の役割として次のようなものが上げられています。
 すなわち、食料の供給、食料の安全保障、国土の保全、水源の涵養、自然環境の保全、美しい景観の形成、伝統文化の継承等です。
 そして、国土の保全以下の役割については農業の多面的機能、多面的役割といった言葉で表現されています。
 経済学でいう「外部経済」、すなわち価格として市場で評価される生産物の価値のほかに農業がもたらせている社会的な効用です。
 これに対して反農業の立場から、日本の農業は大きな財政負担を必要とし、また世界の自由貿易体制への日本の参加を妨げているなど社会的な不効用のほうが大きいという議論があり、また農薬、化学肥料の多用等農業の反自然性に対する批判もあります。

 ここでは、その議論には入らず、農業の多面的機能、多面的役割という時、なぜか取り上げられない機能・役割があることを指摘しておきたいと思います。
 関税を中心とする国境措置あるいは財政負担による所得補てんを行わなければ日本の農業は消滅し、日本はシンガポールのような都市国家にならざるをえないというのが冷厳な客観的事実です。そして農業保護批判の人に「あなたは日本のシンガポール化を目指すのか?」とたずねると強い感情的反発を受けるのが通例です。その感情的反発の背景には、「なぜか取り上げられない機能・役割」へのかすかな思いがあるのではないか、と考えています。
 日本が資本主義経済システムを採用しており、つい最近まで社会主義に対する強い対抗心があったことが、その機能・役割への言及が抑制されてきた原因なのではないかとも思われます。

 さて、その機能・役割とは何でしょうか?
 一般に、細胞レベルから生物個体、更に企業その他の社会組織、大きくは国家、民族に至るまで、「組織」というものが様々な条件の変化、環境の変化に対応して存続していくためには、柔軟な対応力が必要です。そして、その対応力はその「組織」が有する「多様性」に基づいて獲得されるものです。
 高等生物がオスメスという両性生殖であるのは、単性生殖である場合よりもはるかに多様性に富んだ個体を、すなわち環境変化に対応力を持った個体を生み出し、種を維持できるからだと考えられています。
 ある一社会的組織が、特定の時期の、特定の場所での、特定の目的の場合にのみ力を発揮できる構成員からだけで成っていたとしたら、その条件にはまった場合には大いに繁栄するでしょうが、その条件が失われた時に対応力のないその組織はあえなく消滅するでしょう。
 国家もまた、単一原理(=単一評価基準)のみで運営されるのは危険であり、内部に多様な原理を存続させ、単一原理(=単一評価基準)でカバーできない側面をそれらの原理でカバーできることが国家としての実力になるのです。

 日本は国家の経済システムとして資本主義を採用し、社会の中心は営利企業から構成されていますが、様々の非資本主義組織もまた構成員となっており、非資本主義的原理が資本主義市場原理と併存しています。それは日本のみならず世界各国共通のことです。
 そして、日本の農業は、いうまでもなく資本主義市場原理のもとでの存在ですが、他の産業部門に比べて非資本主義的性格を色濃く有しています。(言うまでもなく、それは農業が資本主義以前から存在していた産業であるという歴史的経緯に基づくものです。)
 それは、共同体的性格、ゲマインシャフトなどと呼ばれ、日々その性格は日本農業から失われつつあるのが実情ですが、それでも他の産業部門とは根本的に違うレベルで存在しています。
 それこそが日本社会の多様性であり、日本文化の固有性の基礎をなしており、日本社会のふところの深さであり、条件変化への対応力の基盤となるべきものです。
 このようなことは決して自覚的に政策的意図をもって行われてきたものではありませんが、日本の農業はその多面的機能、多面的役割のひとつとしてこのような機能・役割を果たしてきたのです。
 
 日本がシンガポール的都市国家となって、社会が営利的性格で単層化し、社会的評価基準が単純化した時、日本は果たして日本として存続していけるのでしょうか?
 昨今、「無縁社会」とか「孤族」とかいう言葉が社会現象として取り上げられるようになっていますが、徐々に進行してきた日本社会の多様性の喪失が限界を迎え、社会のふところが浅くなっていることがその背景になっているのではないでしょうか?