河瀬直美監督(1969年生まれの女性監督)の映画「沙羅双樹」
を見ました。
カンヌ映画祭に出品されたことによる話題性はあるものの、外見
的には地味な作品であるため、興行的に成功するかどうかは疑問
です。
しかし、この映画の持つ意義は、興行的成功いかんにかかわらず、
とても大きなものがあると考えられます。
一般に映画では、戦い、ロマン、サスペンスなど非日常的な出来
事が展開されます。それを反映して、そこに登場する主人公も非日
常的な美男美女です。
そこには観客というものは毎日毎日同じことの繰り返しである日常
に倦怠感を抱いている存在であるとの前提があると考えられます。
そして、映画は日常性のもたらす倦怠感から観客を非日常の世界
に解放するエンターテイメントであるという考え方があると思われま
す。
ハリウッド映画といわれるようなものは特にその傾向が顕著でしょ
う。
これに対して「沙羅双樹」は、奈良の墨職人の家庭を舞台にして徹
底的に日常を描きます。会話は極端に少なく、かつまったく日常的
な会話しかなされません。
ただし、それだけでは映画にはならないのであって、背景にその家
族の双子の兄弟の一人が事件によって失われたという過去がある
のです。
日常の家族の動き、表情、そしてわずかな会話は、すべて過去の
事件を背負っているのです。
その結果、家族の動き、表情、会話の一つ一つは、日常性という
言葉では片付けられない重みをはらんだものとなるのです。
そして、登場するもう一つの家庭の日常もまたそうであることを描
き、そもそもすべての人々の日常性もまた同じように重みをはらん
だものであることを映画全体で一貫して強く示唆するのです。
観客の一人一人も有している日常性に意味を付与し、重みを再
認識させる映画、別言すると日常性もまたドラマティックであると主
張する映画ということができるでしょう。
1996年に劇場公開された河瀬監督の「萌の朱雀(もえのすざく)
」も、思い起こせば同じ構想に基づく作品だったと考えられます。
を見ました。
カンヌ映画祭に出品されたことによる話題性はあるものの、外見
的には地味な作品であるため、興行的に成功するかどうかは疑問
です。
しかし、この映画の持つ意義は、興行的成功いかんにかかわらず、
とても大きなものがあると考えられます。
一般に映画では、戦い、ロマン、サスペンスなど非日常的な出来
事が展開されます。それを反映して、そこに登場する主人公も非日
常的な美男美女です。
そこには観客というものは毎日毎日同じことの繰り返しである日常
に倦怠感を抱いている存在であるとの前提があると考えられます。
そして、映画は日常性のもたらす倦怠感から観客を非日常の世界
に解放するエンターテイメントであるという考え方があると思われま
す。
ハリウッド映画といわれるようなものは特にその傾向が顕著でしょ
う。
これに対して「沙羅双樹」は、奈良の墨職人の家庭を舞台にして徹
底的に日常を描きます。会話は極端に少なく、かつまったく日常的
な会話しかなされません。
ただし、それだけでは映画にはならないのであって、背景にその家
族の双子の兄弟の一人が事件によって失われたという過去がある
のです。
日常の家族の動き、表情、そしてわずかな会話は、すべて過去の
事件を背負っているのです。
その結果、家族の動き、表情、会話の一つ一つは、日常性という
言葉では片付けられない重みをはらんだものとなるのです。
そして、登場するもう一つの家庭の日常もまたそうであることを描
き、そもそもすべての人々の日常性もまた同じように重みをはらん
だものであることを映画全体で一貫して強く示唆するのです。
観客の一人一人も有している日常性に意味を付与し、重みを再
認識させる映画、別言すると日常性もまたドラマティックであると主
張する映画ということができるでしょう。
1996年に劇場公開された河瀬監督の「萌の朱雀(もえのすざく)
」も、思い起こせば同じ構想に基づく作品だったと考えられます。