2003年8月26日

 今や超有名人になっている心理学者河合隼雄のかつての著作に
「科学と宗教の接点」があります。
 私はこの著作により、宗教というものは何か、また科学というもの
は何か、について目を瞠かされました。
 しかし、その中に八卦、あの「当たるも八卦、当たらぬも八卦」の
八卦、細い竹の束をガサゴソやる易占いを評価する部分があり、
東洋哲学の再評価とはいっても、そこまで行くのは行き過ぎではな
いかという違和感が残っていました。

 最近、心理学者霜山徳爾の「素足の心理療法」を読み、その違
和感が解消される思いがしています。
 その解消をもたらせた直接的な記述は次のとおりです。

「 臨床家が誰でも知っていることは、素朴な表現でいえば‥‥実
 はこれが重大なのであるが、‥‥「運が悪い」という患者の事情
 である。これは大ていの真摯な第1線の臨床家なら誰でも痛感し
 ていることであろう。患者は何も好きこのんで発症しているわけで
 はない。家族関係、社会的対人関係、知能、遺伝負因、それに何
 よりもまだ未知の因子などが、たまたま「運悪く」相乗的に裏目に
 出て発症したのであって、われわれと異次元の病者ではなく、すぐ
 隣にいる人間である。われわれの方が「たまたま運がよく」わずか
 の僥倖で発症しなかっただけの話である。」

 すなわち、「たまたま「運悪く」相乗的に裏目」というところがポイン
トで、科学的にはまったく因果関係が認められない事実の重なり合
いを、人間の精神は統合し、一つのメッセージとして受け止めてし
まう傾向を持っているのです。
 精神病発症に至ったその統合に対して影響力を発揮し、治療効
果が期待できるものならば、臨床の立場からそれを評価すること
は、なるほど考えられることだと納得したわけです。

 もちろん、科学的精神にあふれ、因果関係の有無に敏感で、簡
単には事実の統合をしない性質の人もいれば、数少ない出来事を
すぐに統合して喜怒哀楽を繰り返す人もいます。また、体験した事
実の重さが統合に当たって大きく作用するものでもあるでしょう。
 しかし、人それぞれによって程度の違いは相当あると思われるも
のの、人がそういう傾向を持っていることは共通していると考えられ
ます。

 さて、我々としては、八卦に頼るようになる前に、我々を取り巻い
てメッセージを発する事実を数多く見出し、その多彩多様なメッセ
ージを受け止めること、しかも、我々が常にそこにある日常性の中
にそれらを見出し、メッセージを受け止めることが、簡単、安易な
運命論に陥るのを防ぐために重要と考えられます。