2003年9月15日

 「この世には秩序がある。その秩序は人間にとって好ましいもので
ある。」、諸宗教はこのことを明らかにしようとするものであるという点
において共通であるということはかつて指摘したところです。
 科学もまた「この世に秩序がある。」ということを明らかにしようとす
るものであり、この点において科学と宗教に接点があるということも
指摘しました。
 ただし科学は「その秩序は人間にとって好ましいものである。」とい
うことを明らかにしようとする意図はなく、むしろ結果的には逆のこと
を、すなわち「いずれ人類は滅亡する。」ということを明らかにしてしま
ったという点で科学は宗教と大きな違いがあります。
 いずれにしろ、これらは人間の「無秩序恐怖」に対する防衛反応と
考えることができるでしょう。

 さて、諸宗教が共通して防衛しようとしている人間の恐怖に「絶対的
孤独恐怖」があります。
 「絶対的孤独」は科学を待つまでもなく、「死」という絶対的事実によ
って人間に突きつけられています。
 それに対して宗教はどのように対応しているのでしょうか?

 諸宗教の究極的共通点は、人間を「見ている」「まなざしを向けてい
る」「見守っている」ということです。
 「おまえは孤独ではない。なぜなら、おまえは見られている、まなざし
を向けられている、見守られている。」と諸宗教は語りかけています。
 このためには「見る主体」の存在が必要です。このため、神とか仏が
眼を持つものとして人間の形をとり、人格化される必然があるのです。
 たぶん仏教に仏の人格化ということは本来はなかったと思われます。
その点において、仏教は他宗教に比べて科学に近接していたと思わ
れます。
 しかし、結局は何とか仏とか、何とか菩薩とか、何とか観音などと、
人格化したものを信仰の対象とせざるをえませんでした。
 仏教もまた、人間の「絶対孤独恐怖」に対応せざるを得なかったの
です。