2003年9月25日

 ベストセラー、養老孟司「バカの壁」を読みました。
 ここで「バカ」とは、「100%分かった、100%正しい」と思い込
んでしまうことで、その思い込みの世界の外側が見えないこと、そ
の外側の世界の存在が理解できないことを「壁」と呼んでいます。
 この「バカの壁」が現代社会の諸問題の原因とされ、「バカの壁」
を築いている現代人、とりわけ現代日本人が徹底的に攻撃され、
さらにイスラム、ユダヤ、キリストという3つの一神教が槍玉にあが
っています。
そして、問題のある現代人の原理、一神教の原理に対して普遍的

として定立される原理は、「人間であればこうだろう」という「常識」だ

というのです。

同意できる内容は多いものの、ずいぶんと荒っぽい、危険な議論
だと思わざるをえませんでした。

 なぜ一神教を信仰する世界の3分の2の人々が、「人間であれば
こうだろう」という「常識」に反して、養老先生の批判する「バカの壁」
の中に閉じこもってしまうのでしょうか?
 養老先生の言う「常識」とはいかなる内容のものなのでしょうか?
(養老先生が例に上げているのは、残念ながら「人間であれば親し
い人を殺さない」「使い切れない金を持っていても仕方がない」「人
間はみな同じ」という程度のことに過ぎません。)
 「人間であればこうだろう」と断定できるほど人間は単純なのでしょ
うか?
 仮に養老先生の言う「常識」が正しいものだとして、その「常識」に
同意しない人々を「バカの壁」に閉じこもる「非常識」と非難するだけ
ならば、その「常識」も客観的には「バカの壁」と同じ機能を果たして
いるだけのことになってしまうのではないでしょうか?
 そうだとすれば、これもまた不毛の対立をもたらすものでしかない
のではないでしょうか?

 「バカの壁」の存在を指摘するならば、その壁の性質を明らかにし
て、その性質に応じて壁を取り払う方途あるいは壁を乗り越える方
途を探求することこそが現代の課題のはずです。
 みんなが全員「常識」をもてば問題が解決するというのは、何の解
決の方途を示したことにはなりません。

 「バカの壁」がベストセラーになっているのは、残念ながら現代が
直面している問題に解決策を提示しているからではないように思わ
れます。
 その背景には、理解できない諸問題が次から次へと発生する状
況の中で、それを自分の中で一挙に片付けてしまいたい、しかも自
己反省、自己否定を経る必要のない方法で片付けてしまいたいと
いう人々の安易、安直で、高慢かつ危険な欲求があるような気がし
てなりません。