2003年10月17日
我々はマインド・コントロールされているのかもしれません。それに
気づかないということそれ自体が、マインド・コントロールされている
ことの証左として疑わなければなりません。
我々は子供の時から国家によって管理された教育を受け、巨大な
マスコミを通じて膨大な商品コマーシャルを浴び続け、事実を確かめ
ようのない、操作されているかもしれない報道に取り囲まれて生活し
ています。
1つのコントロールセンターによって統一的にマインド・コントロール
されているのではないにせよ、それぞれの役割を担っている分権的
な複数の組織によって、結果的にはある許容範囲の中に閉じ込めら
れ、ある方向に誘導されているのかもしれません。
喜んだり、悲しんだり、泣いたり、笑ったり、怒ったりすることが、マ
インド・コントロールの影響でしかないとしたら、我々は何とムダでバ
カゲた感情生活を送っていることになるでしょう。
営利とか権力維持とかの目的でマインド・コントロールされているの
ではないかという疑いを拭い切れないので、現代社会が真に溌剌とし
た文化を形成することができないのではないかとも考えられます。
さて、仮に特定目的のためにマインド・コントロールを狙っている組
織があったとします。
当然のことながら、その組織は特定目的実現のための効率性を考
えるでしょう。
その効率性のため、情報の質はたぶん大衆迎合的な色彩を帯びる
ものが選択され、情報手段は大量情報伝達手段が選択されるでしょう。
ということは、効率性追及のための情報発信者の選択の枠外に身を
置くことによって、我々はマインド・コントロールの対象外に逃れられる
という理屈になります。
すなわち、マインド・コントロールを狙う情報発信者が想定することの
できない感情生活の習慣を持つこと、大量情報伝達手段から完全に
逃れることはむずかしいので、少なくとも一般的ではない独自の情報
ルートとのつながりを確保すること、このような対応によってマインド・
コントロールを受ける危険性は小さくすることができると思われます。
アイデンティティ不安が人間の精神を深刻にむしばんでいることを考
えると、「豊かな生活」よりもマインド・コントロールからの離脱のほうに
より努力を傾けるべき時代なのではないでしょうか。