2011年1月24日(出来たて)
薩摩焼の第15代沈壽官氏、歌舞伎の中村富十郎丈が語っていた「品」、そして能の秘伝書「風姿花伝」にある「位(くらい)「萎(しお)れたる」とは何なのでしょうか?
これらのことが一定の「芸域」、技術水準に達した段階においての問題であることは、当然の前提であり、成長過程、修行中の問題でないことは言うまでもないことです。
さて、それでは、一定の「芸域」、技術水準に達したところで、いったい「芸」に、あるいは「作品」に、何が起きるのでしょうか?
「風姿花伝」の教えるところを拾い出せば、それは「諍識」「慢心」「上慢」ということになります。
「諍識」とは、自分勝手な慢心から生ずる争い心です。「上慢」とは、増上慢、悟りを得たと思ってたかぶることです。
これらのことが「能は上がらぬ、能は下がる」として強く戒められています。
このことをやや一般化して言えば、観客や鑑賞者に対して、芝居や作品の予定するところではない余分なメッセージを役者や作家が発すること、役者あるいは作家の個人の生身や生々しい意識を観客や鑑賞者に感じさせること、押し付けがましい自己主張があること、ということができるでしょう。
「芸」や「作品」に「臭味(くさみ)」があるなどといわれるのは、このことを指していると思われます。
素顔のままでする「直面(ひためん)」の能は「位」がなければできるものではないという「風姿花伝」がここで思い出されます。
「品」という言葉の英語の訳語はいくつかありますが、そのうちに「refinement」があります。
「精錬する」「余分なものを取り去る」という意味であり、「品」「位」とはまさにこの「refinement」でしょう。
「芸」「作品」が無我、忘我で演じられ、創り出されることなどはないと思いますが、それでも観客、鑑賞者に役者、作家の無我、忘我の境地を思わせること、それが「品」「位」そして「萎れたる」なのではないでしょうか。