2003年11月21日

 安岡章太郎「天上大風」の中の「俊寛と焼飯」という文章を読んで
いて、久しぶりに「スノビッシュ」(=snobbish)という単語にお目に
かかりました。
 「‥‥田村町か六本木あたりの‥‥中華というよりチャイニーズ・
 レストランであろう。真っ白なテーブル・クロスのかかった卓子に、
 皮表紙か何かの大きなメニューをかかえたウェイタアやウェイトレ
 スが、しずしずと厚手の絨毯を踏んで近寄ってくる、そういうスノビ
 ッシュな店である。」という下りです。

 高校時代の英語で「スノビズム」(=snobism)という単語に出会
い、我々高校生たちが社会に対する批判的心情を表現するのに、
なかなか使い勝手のいい単語を見つけたという感じがありました。
 同感の連中も多かったのでしょう、会話の中で「スノビズム」という
単語は多用されました。
 思い出せば、それに対する言葉として「精神的貴族主義」という言
葉がありました。これは多用されませんでしたが、「スノビズム」とい
う単語を使う心情的背景としてあったものでした。
 早熟な私が「プチブル的」という左翼用語を拾ってきて、それがク
ラスの早熟な連中の間で多用されるようになったこともありました。
(手元にないので確かめられないのですが、船橋聖一の「華燭」とい
う短編から拾ってきたように記憶しています。)

 いつの頃から、どうして、これらの言葉が使われなくなってしまった
のか?

 つらつら考えていたら、我々自身が「スノビッシュ」に、「プチブル的」
になってしまったからだという、極めて妥当な、否定しようのない、そし
て情けない原因に思い当たりました。