2003年12月22日
「民主主義」は、言うまでもなく、否定されるべき政治制度ではなく、
これからも尊重されなければならない政治制度です。
しかし、あまりにも「民主主義!民主主義!」ともてはやされて、明
るく輝く、無欠陥の制度であるかのように取り扱われると、「民主主義
」の持つ悲しい性格を指摘しておきたくなります。
また、「民主主義」がより良く機能していくためには、その悲しい性
格を認識しておく必要があると考えられます。
悲しい性格というのは、「民主主義」が前提としている人間観です。
社会は、目先の利害にとらわれて叡智に至ることのない、ドングリ
の背比べ状態の人間たちから構成されており、特定の哲人がいる
わけでもないし、登場してくる可能性もない、こういう人間たちから成
る社会を運営していくためには、「民主主義」しかなかろう、というの
が「民主主義」です。
利己的で知恵に欠ける人間という諦念から妥協的に生み出された
悲しい政治制度が「民主主義」なのです。
このような「民主主義」の悲しい性格は、社会に対して悪影響をもた
らせます。
すなわち、人間の現状に対する諦念とは、言い換えれば人間の現
状の追認でもあるため、人間の質的向上、人間のノーブレス(nobll
esse)化のシステムが社会にセットされないのです。
「民主主義」とはデモクラシー、すなわち「大衆による支配」という意
味ですが、否定的な意味での「大衆」は、その俗悪な面をも追認され
て居直った状態となってしまうのです。
政治学者京極純一東大教授(当時)は政界官界を目指す学生たち
に「日本は『アホダラ共同体』である」と語っていたそうです。国を担う
意欲に燃える学生たちに対し、「民主主義」の悲しい性格を認識して
おく必要を、教授独特のシニカルな表現で述べていたものと思われま
す。