2004年1月12日

 場面に登場する父親は89歳、母親と姪はともにおよそひと回り下
の70歳代後半です。
 若い頃、その父親が銀座などに姪を遊びに連れていっていたこと
は、書かれていたのですが‥‥

「‥‥棺桶に入れて、いよいよ最後の別れになった。
 『叔母様』
 そのとき父の姪が母に呼びかけた。
 『叔父様にキスをしてもいいかしら』
 母はびっくりしたようだったが、すぐに言った。
 『そうしてくださる』
 姪は父の額に別れのキスをした。可愛がっていたたったひとりの
姪がキスをしてくれる。たぶん好意を寄せていた兄嫁の娘である姪。
何度も何度も見ていたという孫の絵入りの手紙3通と姪のキスが父
への最後の贈り物となった。
 柩に蓋がされた。             」

 スポーツ・ノンフィクションで有名な沢木耕太郎が自分の父親の死
を書いた小説「無名」の一節です。
 いまや一つの文芸ジャンルを形成している感のある「介護もの」で
すが、この小説はその力作のひとつといえるでしょう。

 沢木耕太郎は、さらっと、挿話の意図をあからさまにすることなく、
この一節を挿入して、小説の題名「無名」の反語性を明らかにしてい
ます。