2004年2月10日

 「あの小説家佐藤愛子が心霊現象とか霊能者とかを熱心に信じて
いる。『私の遺言』という本だ。お前は心霊現象といったものついてど
う考えるか?」という友人からの問いがありました。以下がその答で
す。

 我々は本能というナビゲーターを失った動物である。本能に代えて
我々はある秩序観に基づく行動原則に従って生きている。秩序観が
なければ行動原則は成り立たない。

 しかし、その秩序観の根拠はというと、個人個人にとっては明確な
ものではない。敢えて言えば、多くの人々とその秩序観を共有してい
るらしいということが、個人の秩序観を支えているにすぎない。
(近代自然科学が明らかにした宇宙自然の秩序についても、その妥
当性をひとりひとりが確認したわけではなく、またごく少数の人を除い
て確認する能力を有しない。)

 このため、ある人がその秩序観を揺るがせるような経験をした場合、
特に多くの人々と共有できない特異な経験をした場合、その秩序観
は極めて脆く崩壊する。

 このような経験は、確率の極めて低いと思われる現象が客観的に
発生したことによる場合もあれば、個人の心理的原因による幻聴、幻
視のような場合もあるが、いずれにしても本人にとってはその経験は
絶対的なものであり、否定しがたいものである。

 既存の秩序観が崩壊した場合、人間は秩序観に基づく行動原則が
なければ生きられない存在なので、そのままの状態でとどまっている
ことはできず、他の秩序観で代替する。

 その代替に失敗した場合、その人間はもはや生活を営むことはで
きない。
 また、代替された秩序観がもたらす行動原則が社会性を逸脱して
いる場合は、社会的に生活の継続が否定される。
 逆に言えば、多くの人々にとってナンセンスな秩序観であっても、許
容範囲内であれば、ナンセンスな秩序観に基づく生活の継続は可能
である。

 我々一般が有する秩序観の基盤は近代自然科学であるが、近代
自然科学は宇宙自然の秩序の解明に多くの成果を上げたが、すべ
てを解明し尽くしたわけではない。

 近代自然科学はこれまで多くの成果を上げてきているので、帰納法
的にそれは正しいのだろうとの推定がなされ、また今後とも更に宇宙
自然の秩序の解明が進むであろうとの期待が生まれる。この推定と
期待によって近代自然科学に基づく秩序観は支えられている。
 従って、そこに一定の限界性があること、脆弱性があることは否定
しがたい。

 ところで、人間は宇宙自然の秩序のもとにある存在であると同時に、
自ら人間社会の秩序を形成するという存在である。
 人間社会の構成員たる人間が非科学的秩序観を持っていたほうが
科学的秩序観を持っているよりも人間社会の秩序の形成上優位であ
るのならば、功利的な意味で、ということはどちらが真理であるか否か
ということには関係なく、非科学的秩序観が採用されたほうがよりよい
ということになる。

 現在は、人々が非科学的秩序観ではなく科学的秩序観を持っている
ほうが人間社会の形成上優位であると考えられている時代である。

 以上のような客観的状況の中で、私は、前述のような帰納法によっ
て近代自然科学が提供する秩序観を信じている。
 科学的秩序観と非科学的秩序観のどちらを人々が持つのが人間社
会の形成上優位にあるかは分からない。
 しかし、科学的秩序観という列車に乗り込んでしまっており、他の列
車に乗り換えることはもはや不可能である。