2004年4月13日
「私の生涯唯一のファンタジー・ノベル」と銘打たれた大江健三郎の
小説「二百年の子供」の、いつもながら感動的な最終場面に、大江健
三郎本人と考えるほかない「父」の言葉として、次のような語りがあり
ます。
「 私らの大切な仕事は、未来を作るということだ、私らが呼吸をしたり、
栄養をとったり、動きまわったりするのも、未来を作るための働きなん
だ。ヴァレリーは、そういうんだ。私らは〈いま〉を生きているようでもさ、
いわばさ、〈いま〉に溶けこんでる未来を生きている。過去だって、〈い
ま〉を生きる私らが未来にも足をかけているから、意味がある。思いで
も、後悔すらも‥‥
私が「ピンチ」だったのは、自分の〈いま〉に未来を見つけないでさ、閉
じてしまった扉のこちら側で、思い出したり後悔したりするだけだったか
らじゃないか?もう残っている〈いま〉は短いが、そこにふくまれる未来を
見ようと思い立ってね。
それが「ピンチ」を脱け出すきっかけになった。お薬の力もあるよ。し
かし、未来を作る仕事として薬を飲んでるんだ。もう後戻りはないと、私
としては思う。」
(「ピンチ」とは「うつ病」のことであり、したがって「お薬」とは「抗うつ剤」
のはずです。)
この語りは、この小説の最終場面にたどり着いた多くの人々に感動を
与え、勇気を与え、人生を導く力を与えるでしょう。
このことに否定的感情を持つものでは決してありません。
しかし、この語りに感動し、勇気づけられる人々、そのような良心的な
人々に、指摘し、熟考を要請しなければならない重要な課題があります。
それは、同じく人々に感動を与え、勇気づける仏教思想の「いま、こ
こ」という考え方、唯一確実なのは「いま、ここ」のみであり、「いま、ここ
」をこそ大切に生きなければならないという考え方、この考え方と「未来
を作る」という考え方とは第一義的には不整合があるということです。
日本人の「常識」は、「未来を作る」という考え方が示唆する奉仕、自
己犠牲の道を肯定し、かつ「いま、ここ」という考え方が示唆する無欲、
清貧の道を肯定し、両者の不整合を不問に付してしまいます。
ふつうの場合はそれで不都合はありません。しかし、ギリギリの選択
を迫る極限状態、例えば家族の一員が自爆テロに赴くのを許すか許さ
ないかという決断を迫られる状態‥‥中東の人々は日々このような状
態におかれています‥‥においては、両者の不整合を不問に付したま
までは直面する問題に答を出すことはできません。
「いま、ここ」の考え方には、未来のための犠牲、未来のための投資
という考え方が生じる余地がなく、一方「未来を作る」という考え方には
作られるべき未来がよって立つ思想の根拠‥‥ずばり言えばヒューマ
ニズムを至上とする根拠‥‥を見出すのに不十分性があります。
両者の不整合の問題が解かれなければならないのです。