2010年12月23日(出来たて)
「色即是空」の「空」とは何かということについて、これまで私のアンテナに引っかかった理解の仕方が3つあります。
以下、「空」とされている「色」とは、「人間社会を含めた宇宙・自然」(「宇宙・自然」と略します)ということにしておきます。
1番目の理解の仕方。宇宙科学、量子論など最先端の科学が「宇宙・自然」として教えるところのもの、すなわち千差万別、千変万化する「宇宙・自然」は均一の素材(それを何と呼ぶべきなのかよくわかりません。「エネルギー」「素粒子」「クオーク」?)から成るということが、「空」という表現になっている、というものです。すべてが均一で、同じであり、区別が無いということは「個別的なものは無い」、すなわち「空」、という「空」の理解です。「空」の科学的理解と名づけておきましょう。
2番目の理解の仕方。「宇宙・自然」にあらかじめ定められた設計図というようなものはない、「宇宙・自然」は何らかの理念のもとに造られたものではない、従って「宇宙・自然」に本来的なあり方というものがあるわけではない、ということを「空」と表現しているというものです。これはプラトンの「イデア論」、キリスト教の「天地創造」の考え方とガチンコ勝負の考え方でしょう。たぶん、「宇宙・自然に本来かくかくしかじかというようなことはなく、なるようになっていく」という仏教での「如来蔵世界観」というものがこれでしょう。「空」の反イデア論的理解と名づけておきましょう。
3番目の理解。「宇宙・自然」を分別し、千差万別にして、そこに因縁だの因果だの善悪だの好悪だの美醜だの価値だの効用だのの値札を貼り付けているのは「自己」というものであり(人間に対しても、自分自身に対してさえも値札を張り付けている)、その「自己」の判断への執着(=「我執」)が人間の苦悩の根本原因である、この「自己」がつけた値札をきれいさっぱり取り払ったあとの「宇宙・自然」の姿、これを「空」と表現しているというものです。仏教で涅槃、菩薩、成仏、極楽往生などといわれるものは、この「空」への到達のことだと思われます。「空」の到達点的理解と名づけておきましょう。
ところで、「般若心経」においては「受想行識亦復如是」とされ、「宇宙・自然」を人間が感知し、情報処理することも「空」であるとされています。一方、1番目の「『空』の科学的理解」は人間の科学的認識に信頼をおいているものであり、人間の感知・情報処理である科学的認識を「空」ではなく「実」とするものです。このことからすると「般若心経」の「空」の理解としては整合性に欠けるような気がします。
「般若心経」においてはまた「空即是色」とされ、本来「空」である「宇宙・自然」は、再び人間にとって「宇宙・自然」としてたち現れてくるとされています。2番目の「『空』の反イデア論的理解」では「空即是色」と言い返す必要がないように思われ、「空即是色」がうまく解釈できないような気がします。
3つの理解の仕方は相互に完全排除し合っているのではなく、何処かでつながっているような気がします。