2004年5月24日
このところ森鴎外の歴史小説、考証小説を約20編連続して読みました。
考証小説というのは、歴史上の人物についての出自、事跡、交友関係等
を古文書、聴き取り等によって詳細に調べ上げ、その調査の過程を結果
とともに文章にしたものです。
そして鴎外の場合、歴史上の人物といっても専門家を除けばたぶんその
名を知る人はほとんどいないといった人々です。
読んだものの中には「高瀬舟」「山椒太夫」といったよく読まれていると思
われる作品もありましたが、そのほとんどはおよそエンターテイメントを意
識したものとは思えず、読み続けることに苦痛を覚えるような、読みこなす
のがむずかしい作品でした。
私の手元には未読の長編「伊沢蘭軒」「北条霞亭」があるのですが、我慢
して読み続けるかどうか迷っているのが現状です。
読み続けながらの私の何よりの疑問は、鴎外が事実上無名の人物につ
いて、読者が喜ばないような小説をどうして莫大なエネルギーを費やして書
き続けたのかということでした。
鴎外は結局、ドイツ留学帰りの開明的立場を放棄して仏教的信心、儒教
的忠誠、死を厭わない武士道といった日本回帰に陥ってしまったのではな
いか、復古的傾向に自分を限定してしまったのではないかとの思いにもさ
せられそうでした。
「細木香以」という作品に出会いました。細木香以は、遊びに遊んで大金
を使い果たし、最後は零落してしまった江戸末期の大金持ちです。
鴎外は例によってその華やかな交友関係から湯水の如き金使い、通っ
た妓楼のなじみの遊女達の名前まで詳細に調べ上げて書いています。
そして、この小説において鴎外は、その執筆の立場を次のように書いて
います。
「人生の評価は千殊万別である。仏も王とすべく、魔も王とすべきである。
大尽王香以(注:主人公)‥‥を立つるときは、微塵数のパルヴニュウ(注
:成金)は皆守銭奴となって懺悔し、おいらん王を立つるときは、貞婦烈女
も賢妻良母も皆わけしらずのおぼことなって首を俛(た)るるであろう。」
西欧文化の導入によってないがしろにされつつある旧道徳を賞揚するた
めに鴎外の歴史小説、考証小説は書かれたというような理解は、この作品
によってきっぱりと否定されていると思われます。
それならば、鴎外の歴史小説、考証小説の執筆動機はいったいどんなと
ころにあるのか?
忘れられていく江戸期の知識階級の人々の人間像をただ博物学的に提
示しておきたかったのか?
当時第一級の知識人であり、本人もそう自覚していたはずの鴎外が、「壮
大な無駄」とも評されかねない仕事にエネルギーを注ぐことによって社会の
浅薄な功利的風潮に反抗しようとしていたのか?
そもそも鴎外の執筆態度には自閉的傾向があったのか、現実世界に開か
れていたのか?
疑問は尽きません。