2010年12月10日(出来たて)
「幸福感」というものは「生物的欲求充足感」あるいは「人間的自己肯定感」のいずれかであるということができるでしょう。
そして、「生物的欲求充足感」を得ることができるものの質・内容については、相当な個人差があるとはいえ、所詮一定の範囲に収まるものと思われます。
一方、「人間的自己肯定感」をもたらしうるものについては、社会、文化、時代、出自等々の影響下にあり、人それぞれ、千差万別ということになると思われます。
他者の目から見れば、それは低級であったり、品格がなかったり、他人を犠牲にするものであったり、騙されているだけだったり、狭い仲間内の評判にすぎなかったり、はかない流行でしかなかったり、と自己肯定に批判なきものはないといってもいいでしょう。
そこで、慎重な性格の強い一部の人間は、他者のいかなる批判にも耐えうる「自己肯定感」は何から得ればいいのか、という知的探求に旅立つことになります。
ここからは推定ですが、この知的探求の旅において、ほとんどの場合、残念ながら、究極的・絶対的な、すなわち他者からのいかなる批判にも耐えうる「自己肯定感」の根拠に至ることはできないようです。
そして、一部の人は、「自分自身」あるいは「自分の神」を自己肯定の根拠として根拠を他者と共有することを断念し、ほとんどの場合は、慎重な性格の強い人も、根拠の不確かさと妥協しつつ、何らかの「自己肯定感」をもって他の一般の人々と同様にその人生を続けていくことになっているように思われます。
すなわち、根拠は得られず、したがって「自己肯定感」がはかなき気分にすぎないとうすうす感じつつ、得られた「自己肯定感」について「それもよし」と「観念」するのです。
(そのことは逆に、自己否定感にさいなまれ、その結果重大な事態に陥る人の自己否定感もまた気分にすぎないということを示しています。)
前回披露したプラグマティスト、リチャード・ローティーの次の言葉は、このような自己肯定感の根拠なき、はかなき事態に対して語られたものだと思われます。
「大切なのは、事物を正しく把握するという希望ではなく、暗闇にむかってたがいに身をよせあって生きている他の人間たちへの誠実さである。結局のところ、プラグマティストがおしえるのはこのことである。」