2010年11月28日(出来たて)

 

「リチャード・ローティー(Richard Rorty、1931~)は、……いまや哲学は、真理をめざすすべての学問を基礎づけようとする『第一哲学(first philosophy)』から、『文化批評(culture criticism)』へと、すなわち、人間のさまざまな言論活動の『長所や短所を比較する研究』へと、『脱構築(deconstruction)』されるべきことを説き、現代哲学の諸流派に衝撃を与えた。」(「プラグマティズムの思想」(魚津郁夫著:ちくま学芸文庫)第15章「ローティーのプラグマティズム~全体をふりかえって」)
 これは要するに、人間は理性の営みによって絶対的真理(科学によって明らかにされているような暫定的性格を持つ真理のような場合を除く、究極的な真理)に到達することはできない、理性のできることは人間の理性の様々な活動の比較である、ということでしょう。
 この主張をしているリチャード・ローティーは、プラグマティズムの最先端で活躍していたアメリカの哲学者です。(2007年に逝去)

 ローティーの主張の当否について云々するようなことは力の及ぶところでは到底ありませんが、現代哲学の最先端の議論がそのようなところに至っているということについて次のような感想を持ちました。
 1つは、禅で言う「不立文字」、すなわち究極の真理は言語では表せないという考え方は、その議論で否定されておらず、「直観」の可能性は生き残っているということ、すなわち、究極の真理を言語で表わせない以上、究極の真理を人間が共有することはできませんが、特定の者がそれを把握する余地は残っているということです。
 また、究極の真理が我々人間の前に打ち立てられることがない以上、究極の真理に外から支えられることはないといういささかの寂寥感を伴いつつ、我々人間は自由であるという安心感を得られるということです。
 さらに、人間が究極の真理から見放されている状態におかれているということは、宇宙の迷子となる人類は、迷子同士の連帯感を頼りに、いっしょに慰め合いながら生存していくほかはないということです。

 本書ではローティの次のような言葉が紹介されています。
 「大切なのは、事物を正しく把握するという希望ではなく、暗闇にむかってたがいに身をよせあって生きている他の人間たちへの誠実さである。結局のところ、プラグマティストたちがおしえるのはこのことである。」
 (このローティーの言葉は、宇宙必滅という事実を前にする人類に対して「pity(あわれみ)」を感じるというビッグ・バン理論のホーキング博士の言葉と通じるところがあるような気がしました。)